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川の流れのように / 美空ひばり

皆様、あけましておめでとうございます。
旧年中もこのブログをご贔屓に賜り誠にありがとうございました。
本年も私自身、勉強のつもりで書き続ける所存ですので、
宜しくお願い申し上げますm(__)m


新年第1回目は、前回に予告した通り…

川の流れのようにCDS.jpg

チャートアクション等

「川の流れのように」は美空ひばりさんの、通算302枚目のシングルとして
1989年1月に発売されました。

同年6月24日に美空ひばりさんが逝去し、その後に同曲はチャート上で大きな動きが現れ、
同年9月4日付のオリコンシングルチャートで8位を記録しました。
当時はまだアナログシングルとCDシングルが並行して販売されていた事もあり、
正確な総売り上げ枚数は把握できないのですが、一説によると
150万枚以上売り上げた、とあります(水増し感はありますが)。

1971年に奥村チヨさんが同タイトルの楽曲をシングルで発売していましたが、
当然ながら全くの同名異曲です。
私はその曲もよく憶えていますが(^^;)


作家について

作詞の秋元康氏は、今や説明不要の大プロデューサーですが、
作詞家でもあるんですね。

「川の流れのように」はニューヨークに滞在中、
部屋からイーストリバーを眺めながら書いた詞だそうです。


作曲の見岳章氏は「すみれSeptember Love」のヒットで知られるグループ
一風堂のメンバーで、キーボードを担当していました。


編曲は天地真理さん、桜田淳子さん、キャンディーズ等、
特にアイドル系の楽曲に多くの実績を持つ編曲家の竜崎孝路氏で、
1973年には天地真理さんの「若葉のささやき」でレコード大賞編曲賞を受賞しています。
「川の流れのように」も、特にストリングスのアレンジの素晴らしさが際立っていますね。


楽理ノート

全体の構成はシンプルな2ハーフ。 リズムは極めてストレートな8ビートです。
キーは Dメジャー(ニ長調)で、他調への転調は見られません。

美空ひばりさんの声域はアルトと低めで、この曲ではのっけから最も低い D で始まります。
そして最高はその1オクターブと5度上の A で、その音はファルセットが使われています。


コード進行は正統派のポップスらしい素直なものですが、ドミナントV7 の代わりに
Ⅱm7/V が使われている部分が多々あったり、セブンスコードや分数コードも多用され、
若い世代のポップスと変わりないコード進行が使われています。

そしてコーダは、それまで一度も登場していないメジャーセブンスの
DMaj7 で締めくくられ、哀愁感のある余韻が残ります。


サウンドについて

ひとことでまとめると、お金が掛かってます(^^;)

一聴するとシンプルなのですが、使われているミュージシャンは、
混声コーラスを含めるとかなりの人数です。

ハーフまで来てそのコーラスがやっと現れますし、
それと同時にマーチングバンドのような小太鼓が出てきたり、
コーダの最後にだけバイオリンのソロが登場したりと、
曲をドラマティックに演出するための音は
出番が少なくても惜しまない!と言った姿勢が感じられます。


ピアノ、電気ピアノ、アルペジオ演奏の生ギターなどが
左右にやさしく広がるステレオ収録となっていて、
和音感を大切にすると共に、ひばりさんの歌声を包み込むような音作りです。


竜崎氏らしくストリングスが活躍するサウンドで、そのフレーズは
1番と2番以降とでは全く違う、凝ったアレンジとなっています。

全体的に出しゃばって聞こえる楽器が全くなく、
この曲でもオケはあくまでも伴奏に徹し、ボーカルを引き立てる事に注力しています。


楽器と定位

使われている楽器とその定位は:

中央: ベースギター シンセサイザー バイオリンソロ 小太鼓 エレキギター(SE)

右: ハープ

ドラムス、ストリングス、ピアノ、アコースティックギター、混声コーラスは
それぞれ左右に広がるステレオ収録、
電気ピアノは中央から左右に薄いコーラス効果で広げられています。

ドラムスは、スネアドラムにだけやや深めにリバーブが掛けられています。

間奏で聞こえてくる、風呂場で桶を叩いたような音は、エレキギターによるものでしょう。


最後に

この記事を書くにあたって、オリジナルの歌入り音源、オリジナル・カラオケ、
YouTubeにアップロードされた歌唱場面などをできる限りチェックしていて、
特に映像を観ているとあまりの完璧さにどうしても感動してしまうのと同時に、
なぜかふっと涙が出てくるんです。

その歌声は、技術的な分析や理屈では説明できない、
聴く人の心を直接動かしてしまう何かを持っているとしか思えず、
美空ひばりさんは日本の音楽史における、
不世出の天才歌手である事は間違いないと確信しました。

ひばりさんの他の曲にも言える事ですが、例えば同じ曲の中で数回 ♪ああ…♪
と出てきても、それぞれが全部違う歌い方がされているんです。
単なる2ハーフなのに最後まで聴くのは退屈になる音楽もある中で、
ひばりさんの楽曲は一度聴き始めると最後まで聴きたくなる、
そんな力も持っています。
それは同じ歌詞、同じメロディーのフレーズもただ繰り返すのではなく、
1曲全体を一つのストーリーとして、そんなフレーズのそれぞれが通過点であり、
そこでの役割をきちんと持っているからその時なりの表現をする…
と言ったものであるように、私は解釈しています。

そしてその表現も常に変化するようで、
同じ楽曲でも、歌唱するたびに違う表現・歌い方を見せてくれます。
現在YouTubeに「川の…」の歌唱シーンが2つアップロードされていますが、
続けて観ると歌い方がかなり違う事が確認できます。


亡くなる直前(と言ってもその1年ほど前でしょうか)にテレビで
ひばりさんの歌唱を観た時に、とても優しい顔に見えた事を今も憶えています。
それまでひばりさんに持っていたイメージ、即ち歌はうまいけど怖い、厳しい、近寄り難そう…
そのようなものが、私の中から全部消えました。

そしてほどなくして、昭和と共にひばりさんも遠くに去ってしまいました。
私にとってもひばりさんは、きっと永遠に昭和のシンボルであり続ける事でしょう。


「川の流れのように」
作詞 : 秋元康
作曲 : 見岳章
編曲 : 竜崎孝路
レコード会社 : 日本コロムビア
初発売 : 1989年1月11日

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ゴロちゃん

ぽぽんたさん、明けましておめでとうございます。
今年もこのブログを読むのを日々の楽しみにしていきたいと思っています。よろしくお願いします。

「川の流れのように」のひばりさんの歌唱、YouTubeで聴きました。3つアップされていて3つとも聴きましたが、ぐいぐい引き込まれてしまいました。うまく言葉で表現できなくてありきたりな言葉ですが、本当に感動します。
歌ひとすじできた自分の人生を振り返りながら、これからも自分の選んだ道を気負わずゆっくりと歩んでいきたいという思いが伝わります。
ずっと前、これを作詞したのがあの秋元さんと知った時はびっくりしましたが、ぽぽんたさんの記事で作曲したのが一風堂の人と知り、またまたびっくりしています。

私は2番の♪雨に降られてぬかるんだ道でも、いつかはまた晴れる日がくるから♪という詞のところが大好きです。自分がどんなに大変な状況にあっても、それはいつまでも続かない。大変さを乗り越えて、またいい時がくる、といった希望をもつことができる歌詞だからです。

前も書きましたが、この歌は平成元年1月からのTBS系の昼1時からのドラマの主題歌として流れていました。発売されたばかりの頃ですね。何回か耳にして、「美空ひばりか。いい歌じゃん。」と思いながら聴いていました。まさかこんなビッグな歌になるとは・・・
本当にひばりさんの最期を飾るにふさわしい歌になりましたね。

この歌、多くの歌手の人が歌うのを聴きましたが、ひばりさん以外では、天童よしみさんの歌唱が絶品だと思っています。

まとまらない文になってしまいました。今年もこんな感じですが、いろいろコメント(感想)を入れていきたいと思いますので、どうぞお付き合いください。


by ゴロちゃん (2015-01-05 21:11) 

ゆうのすけ

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げますと共に
御健康御多幸で喜び多い一年でありますように!☆

この年は前年末から 自粛の年末年始でしたよね。この作品 もしかしたら日本コロムビアの平成初荷だったのでは? 平成としても年明けてから初めてのリリース。四半世紀が過ぎましたが歌い継がれるエヴァ―グリーンな名作ですよね。♫~
by ゆうのすけ (2015-01-06 01:53) 

ぽぽんた

ゴロちゃん、あけましておめでとうございます。 昨年はお世話になりました。

本当に不思議なんですよ。 ひばりさんの歌唱映像は、積極的に「見たい」と
思って観ているわけではない時も、ふと気づくとガン見してるんです(^^;)
全身で歌っていると思えるのは、私にとっては後にも先にもひばりさんだけです。
この曲にはそのような姿勢で歌手をしてきたひばりさんが、自身を投影する何かを
感じたから自分から「シングルにしてできるだけ多くの人に聴いてほしい」
と思ったのでしょう。
それが聴衆に届いてからは人生の応援歌として歌い継がれているのが
素晴らしいと思います(^^)

私も、これは記事に書いた事ですが、この曲を歌うひばりさんがとても優しく、
昔感じていた「怖い人」のイメージが全く消えていた事に驚き、初めて
ひばりさんのファンになりました。

天童よしみさんは声質も音域もひばりさんに近いものがありますし、ご本人も
その事を相当に意識しているように思います。

私も満足なお返事が出来ない事が多いですが、こちらこそ今年も
よろしくお願い致します! コメントを楽しみにしています。

by ぽぽんた (2015-01-07 00:21) 

ぽぽんた

ゆうのすけさん、あけましておめでとうございます。
こちらこそ、いつもお世話になってます!

そうですね、思い出しますね。 1月7日に昭和天皇が崩御されて、その頃は
その数ヶ月前から色々な自粛が始まっていました。
そんな中で結果的に最後になったこの曲が発売された事も、ひばりさんが
昭和を代表する歌手である事を象徴していますね。

今年もどうぞ、よろしくお願い致します!

by ぽぽんた (2015-01-07 00:27) 

まるいち

ぽぽんたさん、明けましておめでとうございます!
今年も色々な記事など、楽しみにしています~(^^)
「川の流れのように」やその少し前の「愛燦燦」は自分も50歳台になって改めて聴いてみると
しみじみとした味わいがあって、その微妙なニュアンスなど、思わず聴き惚れてしまいますね~(^^)
私もリアルタイムではひばりさんは
歌はすっごくうまいけどちょっと怖いおばさん…という感じしかなかったのですが
10年位前に、あるFMのジャズ番組で美空ひばり特集というのを聴いて、びっくりしました。
ちょっとジャズ歌ってみました、というようなものではなく、素晴らしいものだったんです。
その後改めてCDで彼女のジャズを聴いてみたのですが
ひばり嬢17歳の時の「A列車で行こう」のド迫力のスキャットなど
この人一体何者だ??と圧倒されたり
28歳の時の「ひばり ジャズを歌う ~ナットキングコールをしのんで」の中の「スターダスト」など
その歌声は、大物歌手の企画物、というレベルをはるかに超えていて
ジャズ歌手として本格的に磨いていったら一体どこまで高みに行ったのだろう…と思わせてくれました。
なんだか「往年の演歌、歌謡曲の女王」というようなイメージだけで見てしまうには
あまりにもったいない気がします。

by まるいち (2015-01-10 17:33) 

ぽぽんた

まるいちさん、あけましておめでとうございます。

美空ひばりさんは仰る通り、演歌の歌手、歌謡曲の歌手とくくってしまうのは
非常に正しくない気が私もしています。

亡くなる数年前に、今も続いている音楽番組「題名のない音楽会」にゲスト出演し、
オペラを歌うのを観た時には本当に鳥肌ものでした。
発声の基礎もしっかりしているし、何よりも生まれながらの音楽の才能が
その時に存分に発揮されたようで、なぜ現在の音楽界にはそういった音楽が
生かされる場がないのだろう、とも思いました。
ジャズを歌っている場面も観た事がありますが、完全に世界が出来上がった、
確かにジャズだけど美空ひばりさんにしか作れない世界だと思いました。
きっと今頃、あの世でそんな音楽も歌いまくって聴衆を楽しませている
かも知れませんね(^^)

今年もどうぞよろしくお願い致します!

by ぽぽんた (2015-01-11 23:27) 

桃ファン

遅くなりましたが明けましておめでとうございます、覚えていますでしょうか?桃ファンです。コメントは久しぶりなのですが
こちらのブログは拝見しております。今年もよろしくお願い致します。美空ひばりさんを取り上げて頂きありがとうございます。このブログをきっかけに70~80年代の歌に興味を持ち、果ては美空ひばりさんのファンになりました。昭和の時代にご活躍された歌手の
皆様とてもすばらしいです。この方はやはり

別格だと思います。リアルタイムでの活動は存じませんが、映像を見ていてもやはり
迫力があります。伝説の不死鳥コンサートは
有名なエピソードですが、具合が悪い中行われたコンサートだそうです。それを思うと胸が痛みます。川の流れのようにの時も悪かったのですかね。ぽぽんたさんからご覧になって不死鳥コンサートのひばりさんはどのように見えましたか?早いもので四半世紀が過ぎ。今年二十七回忌だそうです。映像を見ていて思うのですが、長生きして欲しかったなと思う今日この頃です。
by 桃ファン (2015-01-12 15:51) 

ぽぽんた

桃ファンさん、あけましておめでとうございます。 勿論憶えていますよ(^^)
しばらくぶりのコメントをありがとうございます!

私は物心ついた頃からテレビに毎日のようにひばりさんが出ていたような気がします。
ひばりさんについて真っ先に思い出すのは、金鳥のCMです。 「金鳥の夏 日本の夏」
のセリフはそれこそ、子供の頃には夏休みになると毎日耳にしていました。

東京ドームの公演は当時から何度もテレビで放映されていました。
私はその公演が「素晴らしかった」との賛辞とは裏腹に、歌うひばりさんが
あまりに苦しそうなのが気になって仕方ありませんでした。
あのひばりさんが、声を涸らして歌っているなんてそれまで見た事がなかったので、
正直、私は今でもあの映像はつらくて観られません。

ひばりさんは確かに早世でしたが、その力を存分に発揮した活動をして、
とても幸せな人生だったと思います。
ただ、私も一度でいいから生のステージを観ておきたかったな、と後悔してます。

by ぽぽんた (2015-01-12 23:28) 

あなた達はセンスが無い

こちらのブログを拝見させて頂いておりました。川の流れのように は、メロディーは別として歌詞がトンデモナイ駄作詞です。
人生を道に例えたのに、急に川に変わったり、黄昏(夕方)という言葉の誤用があったり
というように雑な秋元康の仕事が分かります。
この歌の好み以前に、在り来たりで一つ一つの表現に目新しさが無いという事に皆さん気づかないとしたら、かなり言語表現に疎いようですね。
こちらのブログは、由紀さおりの手紙とか、
朝丘雪路の雨がやんだら等に言及されているので余計ビックリです。
そんな名曲と同列にこの駄曲を扱うなんて。
by あなた達はセンスが無い (2018-02-26 17:32) 

ぽぽんた

あなた達はセンスが無いさん(何だか変ですね)、初めまして。
コメントをありがとうございます。

歌詞をどう解釈するかは個人個人の問題ですし、あなたが指摘した事が
あなたの解釈通りであるとは限らないと思いますよ。
誤用と思っていたのが実は比喩だったり、時間的・空間的に別の事を指していたり、
書いた本人しかわからない事もあるでしょうし、聴いた人に誤解させるとしたら
それは良くない事と思いますが、これはこれだ!と四角四面に決めつける前に、
その歌詞が何を言いたいのかを柔軟に考える方が楽しいと思います。
アルバムからのシングルをこの曲に決めたのは美空ひばりさん自身だと言う事は
事実であるようですし、恐らく美空さんほどの人ならば自分の死期も悟っていたでしょうから、
そのような人がなぜ、敢えてこの曲を選んだのかを考察してみるのも、
決して無駄ではないと思います。
日本語って、同じ言葉にいくつもの意味を持たせる事ができる、柔軟な言語です。
なので、「言語表現」も一つの語に一つだけとは限らないんです。
なかにし礼さんがお好きなようですが、なかにしさんが「川の流れのように」に
ついてどう思っているかも調べてみたらいかがですか?

by ぽぽんた (2018-02-26 23:49) 

もっふん

>センスが無いさん

作詞家としての秋元康氏には商業主義のあざとい作品も多いですが、やろうと思えばそれなりにしっかりした詞作が出来る方でもあります。

「人生を道に例えたのに、急に川に変わったり」

・・・残念ながら、国語読解力に不自由なのはあなたご自身ではないでしょうか。

本詞において確かに道は人生の象徴であり、障害物があったり回り道を強いられたりしながらも自分の足で歩まない事には進む事が出来ず、ここではその人が歩んで来た軌跡を示しています。

対して川は時代、すなわち時の流れのメタファーであり、人間界の煩悩と言った曲折に左右されることなく淡々と流れ過ぎて行くものであり、主人公が悩もうが苦労しようが立ち止まろうが、全てを意に介さず過ぎて行き、人の力でその流れを変えたりせき止めたり出来ないと言う意味では、個々の人間の思惑を超越した輪転する運命と言い換えても良いものとして描かれています。

現実と戦いながら生きる事に疲れた時に、いっそ母なる川のように変わらない流れの中にこの身の全てを預けてしまう事が出来れば、それは世俗とは切り離された、一種仏門に帰依した人間のような人生になってしまうかも知れないけれど、煩悩とは無縁の平穏な境地に到達できるのではないか、長く生きて来ると、出来るはずもないそういう生き方に憧れる気持ちを抑える事が出来ない。

これがこの歌で秋元氏が伝えたかったメッセージだと思いますし、私はそういう理解で受け止めていました。

歌い手がぽっと出のくちばしが青い歌手ではなくて美空ひばりさんである以上、歌詞で冒険する必要は全くありません。それをありきたりと感じるのもご自由ですが、個人的な感想を申し上げればただの懐古趣味から抜け出せないだけの大変勿体無い聴かれ方をされたのだと思います。

「歌は世につれ世は歌につれ」と言います。当時の名曲が今の尺度でなお名曲と言えるとは限りませんし、昔の感覚で新しい曲を聞いて駄曲の烙印を押してしまうこともまた、非常に視野が狭くて硬直した感性でしかないと思います。

喧嘩の捨て台詞のようなハンドルのリンクが抹消されており、けなすだけけなしておいてご自分は逃げてしまわれたようですので、その子供じみた行動への反発もこめて失礼を承知で敢えて厳しい論調で書かせて頂きました。

甘んじて受け入れて頂きたいと思います。
_
by もっふん (2018-03-01 02:50) 

ありきたりさ。

この歌に、個人的に思い入れがあるようで。
お気に触ったのは、済みませんでした。
もっふん さんに、質問です。
その、川だの道だのに人生を例えるのは
あなたの人生経験から生まれた考え方ですか?
まず、川や道に人生を例えるのは、日本では昔からの常識というものです。
鴨長明の方丈記では、もうすでに川を用いた人生観が描かれています。
この歌は、一言でいうと『全てが浅い』です。
by ありきたりさ。 (2018-03-29 12:55) 

ありきたり

人生一路という歌があります。この歌も、
道に例えるというアリキタリな手法が使われていますが、傑出しているの作詞家の
掘り下げです。道に例えながらも、
簡潔な文章の羅列で所々処世訓を盛り込みながらも、最後まで『人生一路』というテーマはブレていません。柔も同様に、『柔の心』というテーマはブレていません。
まぁ元々こういう説教的な歌は苦手ですけど。
ところが、川の流れのように は
人生を道に例えた途端、唐突に川に時代の流れを例えるのです。
これは箇条書きのようなもので、構成の美しさに欠けています。
by ありきたり (2018-03-29 13:02) 

タソガレ

黄昏 という言葉には
2つの意味があります。
一つは、物事の終わり頃。(中島みゆきのわかれうたに出てくるのはコッチの意味です。)
二つ目は、夕暮れ時。夕方。
『〜〜川の流れのように とめどなく空が黄昏に染まるだけ』
川の流れのようには、サビの続きなのか、
とめどなく〜 を修飾しているのか人それぞれ捉え方は違うでしょう。その後の、部分
空が黄昏に染まる という表現はオカシイ。
黄昏=夕方という意味ですから、
『空が夕方に染まる』という言葉には違和感を覚えざるおえません。時間帯を表す別の言葉を入れる。要するに、
空が朝に染まる、空が昼に染まるのように別の言葉を入れて考えてみれば不自然さが明確です
傑出した詩的表現は、理詰めで創られているモノです。
こんな風に『黄昏』というカッコ良さげな言葉の雰囲気に頼った比喩表現は、子ども騙しです。

by タソガレ (2018-03-29 13:15) 

、、、

秋元康が個人的に表現したいモノが、あるならば、道に特化した比喩、川に特化した比喩、
空の様子などをもっと細かく描き、聴衆に訴えかけるでしょうが、この歌はカッコ良さげな言葉の羅列ですから、一つ一つが浅くなっています。
『川の流れのように、この身を任せていたい』
は、文章を埋めるために適当に書いたとしか思えません。
秋元康はとんねるず らの縁から美空ひばりに詞を書いたそうですが、個人的にこの歌詞は
彼は、すっかり窶れて死が近づいているひばりに歌わせるための追悼ソングを売るために書いた気がします。
by 、、、 (2018-03-29 13:25) 

お名前(必須)

日本語の間違いなど、読みにくければご勘弁ください。
by お名前(必須) (2018-03-29 13:26) 

もっふん

結局、何とお呼びして良いのか分かりませんが、「自分の感覚だけが正しいさん」とでもお呼びすれば良いのでしょうか。

まず勘違いしないで頂きたいのは、私個人はこの楽曲にも秋元氏にも特段の思い入れはありません。あなたが「私には良さが分からない。駄作に思える」で論を止めておられたのなら噛み付く事も無かったでしょう。同じものを見聞きしてもそれまで過ごして来た人生が違うのですから感じ方は人それぞれで良いと思うのです。

私が許せなかったのは、楽曲への感想を越えて「こんな曲を取り上げる管理人やちやほや褒め称える、あなた方はセンスが無い」と、他の方々を貶める発言をし、あたかも自分だけが分かっていて正しいのだと言う傲慢な書き方をされたからです。

商業音楽と言うのは売れれば勝ちです。美空ひばりさんの逝去に伴う特需があったにせよ、オリコン集計でも40万枚超、一説には150万枚ものレコードやらCDを当時の日本人が購入したのですから、あなたから見て日本語が物足りなかろうが余命を見透かしたあざとさがあろうが(歌手のプライバシーをプロモーションに利用したと言う点ではちあきなおみの「喝采」もそうだと言われるでしょうが「喝采」は名曲と言って良いと思います)、商材として秀逸な楽曲であった事は否定出来ません。

秋元氏について私は、おニャン子からAKBの握手券商法に至る氏の業績を邪道であると感じ、音楽のレベルを低劣化しライフタイムを縮めた元凶とまで個人的に感じてはいますが、氏の手による稲垣潤一の「ドラマティック・レイン」は名曲であると思っていますし、殆ど聴く事も無いAKB48であっても「フライングゲット」など、好きな楽曲はいくつも存在します。

総論としては秋元氏に否定的であっても各論として「グッドジョブ」が存在する事は認めますし、これらの「グッドジョブ」と言える作品を、作曲家の手腕であるとか歌い手の人気であるとかに分解して貢献度を考える事には意味が無いと考えているのです。

「およそ流行歌を作ると言う事はその時代の渇望する物を見つけ出して提示する作業である」と、作詞家である阿久悠氏と作曲家である小室哲哉氏が全く別のところで同じ趣旨の発言をしています(阿久悠氏は偽悪的な表現で「時代と寝ると言う事」とまで表現されています)。

分かりにくいかも知れないので極端な喩えを言うならば、戦後の貧しい日本社会においてこそ「憧れのハワイ航路」は国民の「夢の歌」たり得たわけで、今のようにちょっとした連休に飛行機でグアムやハワイに行けるようになってしまっては、もはや「流行」する要素を失っています。しかしこれは「ハワイ航路」が駄作であると言う意味ではなく、時代背景とセットにして初めて名曲が名曲と評価されるのが「流行りの歌」である歌謡曲の本質であると言う考え方なのです。

もし「川の流れのように」の歌詞を「ありきたりで浅い」と感じられるのであれば、それは当時の人々が美空ひばりに平易なイメージを語って貰う事を受け入れるような時代要素があったのだとお考えになった方が流行歌を理解する上では近道となるかも知れません。実際、本楽曲制作の意図は、それまでの美空ひばりファンのみならず若者にも広く聴いて貰える歌を作る事にあり、「何が若者受けするか」を考える事が出来るであろうと言う理由で秋元氏が抜擢されたとも伝え聞きます。

若者が聴くのであれば方丈記でも徒然草でもさぞかし新鮮であった事でしょう。いや、もう当時はろくに本を読まない大人も多かったと思いますし(笑

「たとえに川を使うのはあなたの考えか?」と質問されたようですが、これは考えるまでもなく歌詞に明確に記されています(しかも一番サビ前から)。

 >曲がりくねった道(地図さえない)それもまた人生
 >ああ、川の流れのように(ゆるやかにいくつも)時代は過ぎて

これでどうして川と道が同じ人生としてごっちゃになってしまうのか、私から見るとむしろそちらの方が不思議なのですが、もしこれを同一視してしまうのが当たり前なのだとしたら、「似ているけれど違う概念」を巧妙に織り交ぜる事で何年も経ってからリスナーがその事に気づかされるという、浅いどころか非常に「深い」歌詞を秋元氏は書いたと言う事になります。

前のコメントでも書きましたが、美空ひばりが歌うのであれば小難しい細工をしなくても、それこそ記事内でぽぽんたさんが書かれているように「ああ」と書くだけでも表現して貰える、だからこそ一見が「浅くてありきたり」でも充分だったのではないでしょうか。

本曲はアルバムのタイトルナンバーでこそありますが、当初はシングルカットの予定は無かったそうです。それが一転してリリースとなった背景には美空ひばりさんご本人の強い要望があったとも聞きます。仮に見る人が見た時に、それがありきたりの歌詞であったとしても、少なくとも歌い手自身を魅了する力を持っていた事実は評価すべきだと思いますし、先述した通り実際にレコードを購入したりカラオケで愛唱する方々の「オツムの程度が知れる」と言うスタンスの書き方は余りにも世間を見下した態度ではないでしょうか。

百歩譲って「大衆はバカである」と言うのが現実であるとするならば、そのバカに愛される歌を作り出す能力こそが職業作詞家のスキルなのだと言えます。そのスキルを褒め称えるのは間違った事でしょうか。

※AKB48の握手券商法にしても、音楽を「握手券のオマケ」として売ってしまった事は音楽制作者として最低最悪の所業だったと思っていますが、ただのイベントプロデューサーとしてならば素晴らしい仕事だったのだと思います。たぶん。

「黄昏」についても、随分と辞書文法至上主義的と言うか論説文的に非常にこだわられているようですが、ポエムやリリックでは「黄昏(と言う概念)に染まる」や「黄昏(の雰囲気)に包まれる」と言った場合の「と言う概念」や「の雰囲気」を省略する形で、この程度の「論説文的齟齬」は日常茶飯事でしょう。

三善英史の「彼と・・・」(1974、作詞:阿久悠)においても、歌い出しが

 黄昏が あの窓におりて来て カーテンを紫に 染めている

であるとか、たぶん「黄昏」に限らず事例はいくらでもあると思います。

「黄昏」は元々は相手の顔が視認できない薄暮に「誰ぞ彼」と言うのが語源の当て字なので、古い書物では夜明け前においても使われていますし(後世では朝を「かわたれ(彼は誰)」と使い分けるのが普通です)、独立した用法が確立するまでの間は「黄昏時」と「時」を修飾する言葉でしかなかった(詰まり「黄昏」だけでは時間帯を表していなかった)時期も長いのです。

辞書に収載されている事だけが全てであったなら、最近の日常会話で普通に使われている「何をたそがれてるの?」などもアウトでしょうし(でも歌詞に書けば通じてしまいます)、言葉は二つの意味で「生物」(いきもの、かつ、ナマモノ)ですから、歌の世界においては殊更「普通使わない用法」をわざと使う場合もあるのだと、そこは緩やかに受け止められた方が良いかと思います(黄昏に染まる、はむしろ口語的に普通だと私は感じますが)。

更に蛇足ですが、詞作する人間は、他の誰も書けない自分だけの表現を考案する事でドヤ顔したいもので、そういう冒険的な部分を作らないと非常に不安になるものです。クリエーターに取って一番怖いものは「平凡」と言う評価だからです。それは当時の秋元氏にとってもそうであったと確信出来ます。

ところが、長くに渡ってご指摘の通り、本作には「秋元節」と呼べるような特徴的な言い回しはこれと言って含まれていません。

プロとして「この曲にはこの歌詞で良いんだ」と言う、これは相当に強い覚悟が無ければこうはなっていなかっただろうと思うと、私には却ってその方が凄い事であるようにも思えます。

勿論、以上の話は私の感覚を述べたに過ぎず、貴兄を初め他の皆さんがどう感じられるかは分かりません。

末筆ながら、遁走を決め込まずにこの場に復帰された事に敬意を表します。今後の建設的な議論を期待して一旦筆を置きます。

_
by もっふん (2018-04-01 05:18) 

度々お邪魔します

黄昏は、夕暮れの薄暗い様子という意味です。
阿久悠作詞では、黄昏を 『紫に染まる』という言葉の修飾に使っています。
秋元康は、黄昏 を色彩表現として使うので、
突き詰めて考えると二重の意味になるのです。
黄金色、茶色 等の言葉が、選ばれるべきです。
by 度々お邪魔します (2018-04-01 08:04) 

黄昏 講釈

もっふんさん。
黄昏る をぼんやりするという意味に使うのは
よく話にでる、間違った言葉遣いです。
黄昏る は、空が夕暮れになる。
人生が終わりに近づく。
という意味が、正しいのです。
最近の歌には、よく文法上の間違いである
ら抜き言葉が出てきてよくウッ となるのですが、川の流れのように ではとても目立つサビの部分で、ワザワザ色彩表現として黄昏を
使ってしまうのでこのオカシナ表現が
強調づけられてしまうのだと思います。
by 黄昏 講釈 (2018-04-01 08:12) 

黄昏 講釈

黄昏る はサビじゃない部分で、使うと、意味は通じそうですし、僕もそこまで引っかかることは無いでしょう。
川の流れのように は、サビ=殺し文句として使っているので、なんで、こんなモノが?
と秋元康に直に聞きたいくらいです。
by 黄昏 講釈 (2018-04-01 08:15) 

やはり、説明不足があったようです。

ややこしくしてしまった部分を、説明します。
この歌は、浅いと思うはっきりとした理由は、
川と道との相関性がはっきりしていない上に、
そこを想像して考えてみればみるほど、他の部分の不自然さが、目立つのです。
不自然な、ある点。
(川の流れのように)は、歌詞中では
時代の流れ、移りゆく季節の雪解け
のように言葉は違えど、『時代がうつりゆく
様子』を強調しています。しかし、
ああ川の流れのように おだやかにこの身をまかせていたい
では、身のまかせ方 を修飾しているのは明らかです。コレでは、もっふんさんのいっている
解釈『移りゆく時代の流れに身をまかせたい』
のようには捉えにくいと言わざるおえません。
川の流れのようにとめどなく空が黄昏にそまるだけ。には、さっきの内容と同じ感想です。

『何』に身をまかせたいのか?が描かれてない
by やはり、説明不足があったようです。 (2018-04-01 08:28) 

日本語間違いすみません。

強調ではなく、修飾でした
by 日本語間違いすみません。 (2018-04-01 08:29) 

人の心に残る歌。

発売された当時の時代背景を考える云々 と仰っていましたが、それは名曲には不要でしょう
その曲だけ聴いてみて、メロディに惹かれたり歌詞の解釈をして凄いと思ってみたりするのは、単純にその歌自体が良いからです。
例えば、津軽海峡冬景色。
連絡船なんか廃止されましたけど、だいたいの雰囲気で、”船に乗って北へ向かうおんな”
は、想像できますからそこまで重要じゃない。
石狩挽歌。
これも、ワザワザはりきって時代考証するまで
も無いです。
あれからニシンは〜 やオタモイ岬のニシン御殿〜から、これがニシン漁の寂れた北海道だと分からなくても聴き手に好奇心を抱かせ、
何のことかという?疑問に繋がりやすいです。
ニシン御殿が、何か調べようという気になります。
上記の歌では顕著ですが、
やはり発売された当時の社会風俗なしで、
歌の中身だけで好き嫌い等を判断すべきです。
憧れのハワイ航路は、今でも分かりやすいし
(当時の人のハワイへの思いだなぁ)くらいの認識で聴ける、うたです。
好きか嫌いかで言うと、そこまで興味ないですね。
by 人の心に残る歌。 (2018-04-01 08:43) 

フライングゲットは、良かったです。

かなり前にヒットして、メロディーは覚えていたんですが
フライングゲット は良作だと思いました。
教えて頂きありがとうございました。
阿久悠は、最近メディアに取り上げられることが多いのが、個人的には疑問です。
彼の作詞は、ストーリー展開が多く
そのために登場人物の感情の表現が疎かにされていることが多いので、あまり彼の作詞で
共感して、泣きそうになったものが無いのです。
阿久悠を昭和歌謡の本流扱いするのには、
反発を覚えます。
by フライングゲットは、良かったです。 (2018-04-01 09:04) 

もっふん

素早いレスポンスからして、真剣にお考えになった結果を書かれているのだと言う事は理解出来ました。が、やはり最初に関係各位を十把一絡げにアホウ扱いした事は正当な行為であったとの誤認識なのですね。

単なる楽曲としての良さと流行歌としての価値は別物だと思っています。由紀さおりさんの「手紙」がお好きなようですが、スマホの普及率が9割を越えた現在、逆立ちしてもあのような恋愛形態は起こり得ず、恋愛ソングの定番小道具であった公衆電話や固定電話も絶滅危惧種ですから、今後は恋愛の局面で利用される事は無いでしょう。

当時の社会情勢や時代背景を切り離してしまうと、それは老人の懐古趣味的オモイデの範疇でしか評価出来なくなってしまいます。つまり歌を通して当時に個人的な思いを馳せる事の出来る人「だけ」が楽しむものになると言う事です。

このブログの熱心な読者さんの一人が「このままでは歌謡曲はクラシック音楽と同じになってしまう」と言う危機感を表明されていましたが、現在の感覚だけで過去の曲を鑑賞すると言うのはまさに過去の名曲を古典として扱う姿勢に繋がります。

勿論、そういう楽しみ方があっても構わないと思いますが、管理人であるぽぽんたさんや私もっふんは、趣味が細分化されてヒットが生まれにくい(他にもたくさん理由はありますが)「これからの時代にも受け入れられる音楽」を考えて行くためのヒントとして過去の楽曲を振り返っていますので、そこはもう取り上げられている音楽に対するスタンスからして異なるのだとしか申しようがありません。

ご発言への最初のレスポンスでぽぽんたさんが「あなたの解釈が全ての人にとって正しいとは限らない」と書かれています。

高校で現代国語で読解の鍛錬を真面目にした人であれば、一つの文章を幾通りにも解釈して、作者の本心がどこにあったのか探求する事こそが本当の意味の国語力である事を体感しているはずです。そこに模範解答や巻末の正解、解説などは存在しません。

書いた人の立場になり切って、なり切って、それでも解釈は分かれるのが常なのです。

より多くの楽曲の良さを堪能するには、人物の置かれている状況や心の動きを想像する力と、自分の主義主張と関係なくそれに共感する能力が必要であると思っています。

阿久悠氏が絶対正義であるとも言いません.が、それが気に食わないとしても、圧倒的な数のヒット曲を生んだ、すなわち「リスナーである大衆に熱烈に支持された」存在である事は、これは事実として認めるしかないでしょう。

流行り歌と言うのはそういうものなのです。

最後に、さんざん「正しい意味と用法は」と主張して来た「黄昏」について、サ変動詞ですらない「黄昏る」と言う新用法がまかり通る事は認めてしまわれるんですね。語源を無視して「たそ+枯れる」とでも誤認しないとこの言葉遣いは成立しません。

さておきこれ、正しくはただ「ぼんやりする」ではなくて「新しい明日や物事に挑戦する覇気が感じられない風情で佇むさま」がより正確な描写に近いと思われ、その「明日なし感」が「人生の終盤戦」を思わせるからこその表現であると解釈すべきと思っています。

だからこそ、ちょっと仕事の合間に一服している人に「何を黄昏ているんですか」と言うのが笑い話になるのです。そこまでニュアンスを読み込めないと小説を読む事も難しいでしょうし、いわんや表現の省略だらけである歌詞に至ってはたった一文字の違いで登場人物の心の機微に対する解釈が変わって来るものです。

大体の場合、きれいに解釈出来ないのは作り手の問題よりも、受け手の感受性やボキャブラリの制約である場合が殆どである、と私自身は自戒しています。


※あんまり敵失めいた部分を突っ込みたくないのですが、

 >阿久悠作詞では黄昏を『紫に染まる』という言葉の修飾に使っています

と書かれていますが、文法上は先のコメントで「時間帯を指す」と主張されて来た「黄昏」が主語です。決して色の修飾ではありません。しかも「染める」前に「おりてくる」と言う動詞まで伴っています。「時間帯が窓を下りて来る」と言う時点で通常の文章としては既に破綻していますが、詩や詞の世界ではこういう事がまかり通ります。

別コメントで主張を修正して書かれたように「夕暮れの薄暗い様子」を指すだけなら、秋元詞は「そのような様子に空が染まる」と書いているだけですからこれはこれで全く問題無いでしょう。

それに秋元詞が「黄昏」を色彩として扱っていると断定できる個所はありません。上で触れたように「黄昏の空気によって染まる」もしくは「黄昏であるかのような風情に染まる」と読み下すのが、最も素直な読解であると思います。

長くなっていますので、再度一旦筆を置きます。
_
by もっふん (2018-04-01 12:05) 

もっふん

誤字訂正

最初のパラグラフ ×「誤認識」 > 〇「ご認識」

失礼しました
_
by もっふん (2018-04-01 12:15) 

空が、黄昏に染まる

ええ。なんども失礼します。
自分は、時間帯を表す言葉朝、昼、夜を含め、
それらの言葉によって受ける印象などを含めて
夕方=夕暮れ時の風景 のように考えていましたが、飛躍でしょうか?
『空の色以外の影や、人間の営み等の雰囲気含めて、夕暮れ時の風景』ですよね。

空 が、黄昏に染まる話です。
この歌詞は、道、川等の比喩を用いて精神世界を
表しているのだという、もっふんさんの考え方を使って説明しましょう。
仮に、秋元康がもっふんさんのように考えて作詞したとすれば、
『とめどなく黄昏に染まる空』自体も精神の表現であるでしょう。前述の内容から考えて、
要は、主人公というかひばりが演じている歌詞の語り手 が『とめどなく空が黄昏に染まるだけ』だと考えているのと同義でしょう。
ここで問題なのは、『どの範囲まで空が黄昏に染まるのか』ということです。
とめどなく〜 というのは精神世界の中ですよね。では世界国々では、日本が夕方であっても時差が生じますから朝だったり、夜だったりする国々も有るのです。現実世界では、空が黄昏にとめどなく染まることは不可能です。
そのような現実世界の空と、
例えれば主人公が眺めながら考えている空とが
どのようにリンクしているのでしょうか?
この場合、秋元康は単純に空の色を歌詞にしていると考えればこのような疑問は、出てこないと思いませんか?
by 空が、黄昏に染まる (2018-04-01 17:01) 

言葉の間違いです。

阿久悠作詞の時に、使った修飾は
ご指摘の通り誤用です。
この歌は知らなかったものですから、
早々にその部分だけ読んで、意見にしてしまいました。
その場かぎりの、そこまで重要じゃない誤用だと思って下さい。大変失礼しました。
by 言葉の間違いです。 (2018-04-01 17:04) 

黄昏る

黄昏る は、存在する言葉だと思いますし、
何か、僕が間違えて使っているところがあれば説明して頂きたいんですが?
漢字の間違いであったたりしますか?
by 黄昏る (2018-04-01 17:08) 

メロディについて

小椋佳が、作詞作曲した愛燦燦という歌があります。
歌詞は好きな方ですが、メロディーがちょっと嫌なんですねこの歌。ぽぽんたさんと同意見ですが、
川の流れのように は見岳章のメロディーが好きです。
サビの、川の流れのようにー が多くの人の耳に残っているのは、このメロディーと平易な
歌詞のためでしょう。
できれば、愛燦燦でこのメロディーを使って欲しかったと思うくらいです。
by メロディについて (2018-04-01 22:05) 

ヒット曲の条件

先日、大橋純子が食道がんのために活動休止を発表しておりました。ご存知のように、
とても綺麗なビブラートを響かせる、いわゆる
上手い 歌手です。
ところが、彼女は岩崎宏美ほどヒット曲が無いと思うのです。
たそがれマイ・ラブ、シンプル・ラブ、
シルエット・ロマンス
ヒットしたのは、この三曲くらいでは無いでしょうか。そこまで熱心なファンでは無かったので
お叱りを受けるかもしれませんが。それから
あちこちで大橋の他の持ち歌を聴いてみたのですが、上記の三曲特に
たそがれ〜 とシルエット〜ほど、メロディーに新鮮さを感じられないというのが一回ずつ聴いた印象です。
大ヒット曲=大衆に受け入れられる曲は、
メロディーが先ず良いという条件が、あるはずです。
それから、聴いていくうちに歌詞の良さを見出すというものでしょう。
by ヒット曲の条件 (2018-04-01 22:19) 

もっふん

後ろから順番に説明させて頂きます。

★「たそがれる」

「あれは誰だ」と問わねばならぬ薄暮の時間帯=誰そ彼時、と言う語源を大事にするのであれば「たそがれる」と言うのは食事する事を「メシる」と表現するのと同じレベルですので、あくまで原義が大事なのか、一旦成立してしまえば経緯は問わないのか、その姿勢をお伺いしたのであって、間違いを指摘しているのではない事をお汲み取り下さい。

言葉が存在するか否か、と言うのは、それが限られた人たちの間であっても使用されて通じているならば存在するのだと言えてしまいますので、「一般的かどうか」を判断基準とするべきでしょう。お断りしておきますが私は今は「たそがれる」は現時点では一般的であり、更に言えばあなたが誤用であると決めつけておられる「ぼんやりしている」と言う意味でも既に市民権を獲得した言葉であると考えています。

一つの指標として、その言葉が一般的であれば辞書に収載されるはずですね。

 広辞苑 25万語、大辞林 WEB版 26万5千語 > 収載されています

広辞苑や大辞林に収載された言葉となると、ネット検索すればあたかも従前から一般的な言葉であったかのように表示されます。普通はここで勝利宣言をしてしまいます。

しかし、広辞苑クラスの中型以上の辞書への収載が一般的な単語である事の保証とならないことは「たほいや」と言うゲーム(辞書には載っているけれど誰も意味が分からない単語を想像で解説する遊び)がテレビで人気を博した事からも明らかです。

世代や地域などのカテゴリを越えて通用する言葉であれば収録語数が10万語以下の国語辞典にも収められる事でしょう。このクラスの辞書は受験参考書として用いられる側面もありますので、その言葉が教科書に載るほど一般的なのかと言う判断の基準になります。

 新明解国語辞典(1996年版) 7万3千語、旺文社古語辞典 4万3千語 > 非収載

調査対象に古語辞典を含めたのは、古くから確立して広く用いられて来た言葉であるなら「たそかるる」として収載されているはずと考えたからです。

ここから分かる事は、ネット検索で即座に調べが付く「空が夕暮れになる。人生が終わりに近づく。」という意味に限定した「黄昏る」と言う動詞は、存在はするけれども一般的とは言えない言葉でしかないと言う事です。

一方、現代用語の基礎知識 1980年版 には「若者用語」として

「たそがれる:さびしくなる。がっくりする。元気がなくなる。金がないとき、勝負に大きく負けたとき、成績が悪かったときなど」

と書かれています。

1980年頃に若者だった人達は現在既に50歳を越えているでしょうから、現時点ではこのようなニュアンスの「黄昏る」と言う言葉は普通に存在すると言って良いでしょう。そしてその世代がネイティブに使用する「黄昏る」は「日暮れを想起させる暗さや終末感」の色彩を帯びているはずです。

しかしまた、日本俗語大辞典(2003)にはこう説明されています。

「外を見てぼうっとする。物思いにふける。若者語。」

2003年の若者も現在は既に30歳を越えて子の親となる世代である事を考えると、あなたが誤用であると主張している「単にぼんやりする」もまた、既にほぼ市民権を得た用法であると認めない事にはフェアな判断であるとは言えません。

以上をまとめると「黄昏る」と言う言葉は

 ・狭い意味では、国語の教科書に載せるほど一般的な言葉ではないが存在はする
 ・アラフィフ以下の年代では打ち萎れている状況を表す言葉として普通に通用する
 ・30代以下の年代では単純にぼんやりしていると言う意味で普通に通用する

詰まるところが、あまり一般的ではなかった言葉を若者(当時)が面白おかしく使用した事で広まったものを、後から「本当の意味は違う」と主張したところで何になるのかと言う事かと思います。

先のコメントで書いた「言葉は生き物である」と言うのはこういう事です。

勿論、私たち年寄りが言葉の本来の意味や用法を若者に伝えて行く努力をする事は間違っていませんが、実際に通用してしまっているものをダメだと言い張ってもそれは無益な事です。歌詞を含めておよそ文章を書く者であれば、若者らしさを表現したり若い読者やリスナーにピンと響く言葉として、敢えて「学のある人であれば眉をひそめるような表現」を用いる勇気を求められる局面も少なくないはずであると考えます。

言葉があるか無いか、正しいか間違っているかに白黒を付けるのではなくて「伝えたい事を伝えたい相手に伝える場面で用いる事が出来るかどうか」を判断するのが、おっしゃるところの「センス」と呼ばれるものではないでしょうか。

★阿久悠氏の詞作への評価

謝罪されているところを死者に鞭打つような真似になってしまいますが、そういう短絡的な判断をされてしまう御姿勢こそが、「この人は先に自分で結論を決めちゃっている」と周囲に思わせてしまうことには注意された方がよろしいかと思います。たぶんそれは不本意な誤解を招くもととなるでしょうから。

★精神世界云々

「精神世界の話」と言いながら物理的な地球の地理を問題にされる感覚が、残念ながら私には理解出来ません。ある人の精神世界はその人の中で閉じているものであって、その人の外部にある現実世界のインドやブラジルの事なんか知った事ではないでしょう。

もし主人公がその時物理的に空を見ていたとしても、それを自分の境遇や人生や時代といった抽象的な概念に重ね合わせて思索を始めた時点で、現実と精神世界は切り離して考えるべきであると考えます。

黄昏を『空の色以外の影や、人間の営み等の雰囲気含めて、夕暮れ時の風景』と、時間帯や色彩に限定しない広い概念で読み下されたのは非常に適切であると感じました。唯一惜しまれるのは、せっかく広がったイメージが『風景』として物理的な視覚情報に集束されてしまったところでしょうか。まあ、雰囲気(生活音は人間の営みですが、夕風の吹く音などが詞として描かれる事もあるでしょう)でも良し、とされるのであれば、これはほぼ全面的に賛成できるご解釈です。

これらは、歌詞に限らず普通のコンテキストにおいても、もっと広く比喩的な用いられ方をする言葉であると思います。

このイメージが共有出来ていながらイマイチ話がかみ合っていない部分もありますので

「川の流れのようにとめどなく 空が黄昏に染まるだけ」

の部分を私がアンチポエム的に読み下すとするならば、

「人生と言う道を歩いて行けば、いつかは頭上に広がる空が夕焼けにどんどん包まれて行くように、なんらかの結末(人間としての死や歌手生命の終焉を想起させますが「これ以上は成長できない限界点への到達」と言う比較的ポジティブな解釈の余地も残っているかと思います)を迎えなければならない。これは逆らう事の出来ない必然であり、この世の摂理でもある」

くらいでしょうか。

しかし、この解釈も私の属人的な感覚であり、各人各様の解釈が成り立つ中の一つに過ぎません。性悪説的に「テキトーに言葉を並べただけ」で終わってしまうよりも、もう少し性善説に立って「何かを伝えようとしているんだが、それは何なんだろう。もし伝わってないとしたらどこが問題なんだろう」などと考えた方がいろいろと楽しめると思うのです。

同じリスナーなら踊らにゃソン、とでも言いましょうかね(笑

書いていて思いましたが、どんな歌でも小説でも、自分の人生経験と照らし合わせて「ああ、この感覚は良く分かる」と思えたリスナーや読み手は非常に幸運なのであるとも思います。

_
by もっふん (2018-04-02 00:58) 

もっふん

私は何もあなたの意見を否定したり論破しようとしているのではなくて、あなたの考えとは別の解釈や感想も、それはそれで充分な正当性を以て成立し得ると言う事を繰り返し述べているだけです。

もしディベートの授業であなたを擁護するロールを渡されれば、これまで書いて来た事と同等にあなたの意見を支持する論述も出来るでしょう。
(先のコメントで私自身が「国語の解釈論に正解は無い」と書いているのですから)

私の望みはただ一つで、あなたお一人の感覚だけでこのブログや読者の皆さんを「言語表現に疎くセンスが無い」と決めつけた事がとんでもない暴挙であった事を認めて頂き、謝罪の上で発言を撤回して頂く事です。

私が書いた事の枝葉末節に脊髄反射で反論されて来るような現在のやり取りが建設的であるとはとても思えません。

あなたが、自分は他者を見下せるほどのセンスや知識をお持ちなのだと思い上がっておられる限り、また、個人の感想や感覚の議論に何らか客観的に見える白黒を付けられるのだと錯誤されている限り、この会話は平行線から離れる事が出来ないでしょう。

きっかけこそ言葉の問題ですが、私はあなたの「簡単に他人を全否定した」と言う行動の方を問題視しているのです。

そこのところを、どうかよくお考え下さい。
_
by もっふん (2018-04-02 07:03) 

青江三奈のファン

初めて、このブログにお邪魔しました。
何やら、議論のようになってますね。
もっふんさん同様に謝罪すべきだと思います。
しかし、私自身もこの曲を美空ひばりの
代表曲扱いする風潮は嫌いです。
歌詞以外の、理由は、幼少期から
チャキチャキと歌手活動をして、ヒット曲の
多い美空ひばりという歌手が、年取ってから体調ボロボロの状態で歌い、残念ながらラストシングルになってしまった曲を
代表曲扱いするのは、亡くなった本人に失礼だと思うからです。
メディアは、華々しいデビュー曲だった
『悲しき口笛』を代表曲にすべきでしょう。
by 青江三奈のファン (2018-04-14 10:36) 

青江三奈のファン

・歌詞ですが、
秋元康の、空が黄昏に染まるだけ
は確かにおかしな表現ですし、
阿久悠の表現も不自然に思えます。
お二人とも気にしていらっしゃいませんが、
染まるという言葉は、
色がつく、感化されるという意味があり、
感化という言葉は人にしか使えません。
だから、秋元康は明らかに黄昏を色として表現
してしまっています。
最初の方が仰るようにこれは言葉の間違いだと考えるのが普通でしょう。
それに、やはり黄昏は時間を表す言葉です。

・川の流れのようにこの身をまかせていたい
には、私も違和感を覚えました。


お二人が気にしていらっしゃらない部分なんですが、この歌詞は言葉のリズムがあまり良くないないと思います。
・何故ならば、3分足らずの歌謡曲の歌詞なの
にこんなに直喩と隠喩が混ざるのは奇妙です。
音読すれば、サビの違和感がハッキリします。

・比喩の話もさせて下さい。もっふんさんは
壮大な解釈をされているようです。
しかし、比喩というものは説明の役割があり
フィクションの中では彩りを添える役割があるものですし、作詞家もそうですが現在の小説家や詩人もこのスタイルを続けています。

『川の流れのように』は
(道、川、空)を用いて比喩をしていますが、
道と川と空には全く関連性が感じられません。

これと対照的なのが、中島みゆきが研ナオコに作詞した、かもめはかもめです。
この歌の比喩の材料は
(かもめ、孔雀や鳩、青空、海)
この5つの関連性は、すぐ思いつきますよね。
しかも此方は、風景が浮かびやすいです。

秋元康は作詞をする上で、あまり日本語の選び方に気を配れていないのは明らかです。
同じの内容の繰り返しですが、比喩は明快で無ければならないのです。秋元康のこの比喩は
中学生の表現技術でも描ける凡作でしょう。

昭和の作詞家(特に美空ひばりの他の楽曲)は、もっと日本語の響きを大事にしています。
例えば星野哲郎作詞のみだれ髪は、
隙のない、漆塗のような完璧な七五調です。

by 青江三奈のファン (2018-04-14 11:04) 

青江三奈のファン

・『川の流れのように』の歌詞は確かに在り来たりな駄作だと思います。
当時の記憶ですが、美空ひばりが死去した時
この歌詞を感動を呼ぶ人生観だと考えるファンと、私同様に駄作だと考えるファンとに
ひばりファンは、分かれたのを覚えています。

子供の読書不足という話題が流行ったことが有りましたが、昭和の子供も同じだったと思います。
この『川の流れのように』という歌詞は
人生観も陳腐で言葉の選び方も良くないのに、なぜ大衆受けしたのでしょうか。
理由は簡単です。

・この歌詞を読んで、在り来たりだと気づくだけの文学的素養が大衆になかったからです。

私自身、子供の頃から運動は好きじゃなかったので、かなり小説や詩歌に親しんできました。
文学と呼ばれる文章もかなり読みましたし、
暗記してしまうくらい、繰り返し読んだ作品もあります。現在の作家でもそんな作品が読めることがあります。

・個人的に傑作だと考えている文学表現や歌謡曲の歌詞には共通点があります。
それは、『陳腐な表現には無い新鮮さが
現在でもハッキリしている』というものです。

この、『川の流れのように』にそういうものを感じたことは有りません。
他の歌謡曲の歌詞なら幾らでも有ります。

些か、極論かもしれませんが、大衆の文化レベルの低さを表すものの典型例が
『川の流れのように』を良い歌詞だと勘違いする人達だと思います。
まともな、美空ひばりのファンなら
『みだれ髪』、『愛燦燦』や
初期楽曲では『ひばりの花売娘』、マドロス物、『津軽のふるさと』、ヤクザ物や男歌
などを好きな楽曲に選ぶはずです。
by 青江三奈のファン (2018-04-14 11:27) 

青江三奈のファン

最近のJPOPの歌詞が薄っぺらいのは、
聴衆やクリエイターに文学的素養が欠けているからだと思います。
もっと文学類を奨励すべきです。
夢や、希望の様な抽象語の連発なら頑張ろうソングは、描くことが出来ても、
作詞家の表現力は全く進歩しないんです。

先ず、聴衆が文学的素養を高め
作詞の良し悪しに気づけるようになれば
クリエイター達も悟るものがあるんじゃ無いでしょうか。
かつての、歌謡曲の作詞家達
(西条八十、川内康範、阿久悠、なかにし礼、山上路夫、有馬三恵子、星野哲郎等々)
は、言葉のスペシャリストでしたね。
by 青江三奈のファン (2018-04-14 11:39) 

青江三奈のファン

最初の方のように、皆さんを見下すつもりは
全く在りません。
ただ、もっふんさんは歌詞の良さとメロディーの良さを混合して、
『現代の人たちにも受け入れてもらえる・・・』と考えたいらっしゃると
思い、つい感情的にコメントした迄です。
by 青江三奈のファン (2018-04-14 11:47) 

もっふん

青江三奈のファンさん、はじめまして

最初から議論でもなんでもないんですよ。

人それぞれの受け止め方や感じ方があっていい物を、「自分の方が教養がある(そもそもここに根拠がありません・笑)のだから正しい」と自説を他人に強要する人がいたので、それはこうしたパブリックな場所では通用しませんよ、と言う話をしていただけです。

私は一時コピーライティングの仕事もしていたので、先の方の言語感覚の古さや、その一個人の古い感覚に世間の方が合わせるべきだと言う考え方自体が、子供じみていて何の役にも立たないと言う事をお伝えしたかったんですけどね。

どうやら逃げてしまわれたようなので、もうこの話はおしまいです。

私も感情的なコメントにいちいち対応するほどヒマではありませんので、あなたの感想はあなたの感想、私の感想は私の感想、世間の評価は世間の評価、それで良いじゃないですかとだけ申しておきます。



話は違いますが、こうした掲示板では簡単に他人になりすます事が出来てしまうので、通常はそれを発見防止するためにアクセス解析と言う機能が備わっています。

その投稿がどこからされたものか、現実世界の住所ではなくて、インターネット上の住所を特定する事が、管理人であれば可能なんです。たぶん So-net も同じでしょう。

名前をいくら変えたところで、同じところから投稿していればネット上の住所は全て同じである(契約しているプロバイダと、おおまかなお住まいの地域くらいまで解析できます)と分かってしまうんですね。

私も以前別の所でブログを主宰していた事がありますが、他人のふりをして同じことを書き込んで来る、いわゆる「荒らし」の人がいたのでブロックした経験があります。

まあ、結構な量のアクセス記録を読まなければならず、少々手間がかかりますので、ぽぽんたさんがそれをされるとは思いませんが、恥の上塗りをしてしまう不幸な方が現れないように念のため。
_
by もっふん (2018-04-14 15:48) 

青江三奈のファン

ぽぽんたさんが、何かなさったんですか?1
by 青江三奈のファン (2018-04-14 16:21) 

もっふん

何を気にされているのか分かりませんが、何もされていないと思いますよ(今のところは)。

ただ、やろうと思えばアクセスログは残っているので、管理人としてどのコメントがどこからの発言なのかを調べる事は出来るだろうと言っているだけです。
_
by もっふん (2018-04-14 17:35) 

もっふん

あくまで一般論ですが、インターネットの仕組み上、あるサイトにアクセスすると、アクセスした人の

・IPアドレス(ネット上の住所。契約プロバイダや居住地域なども分かる)
・コンピューターのOSとバージョン
・使っているブラウザの種類とバージョン
・直前まで見ていたサイト(どこから飛んで来たのか)

と言ったあたりの情報が伝えられますが、それらをまめに記録しているサイトもあればそうでないところもある、と言うご認識でおられるとよろしいかと思います。
_
by もっふん (2018-04-14 17:50) 

もっふん

【善意の読者の皆様へ】

So-netブログではアクセス元のIP情報閲覧はユーザーメニューに無く(なのにIPブロックの機能はあると言う不思議な仕様・笑)、本部に開示請求しても滅多な事では得る事が難しいと言う管理をされているようですので、事実上個人的な情報が明らかになる事は無いのだとご安心下さい。

居住地域と書いたのも管轄する中継基地がどこかと言ったレベルですので、東京ですらせいぜい東か西か、他地域では県単位の精度(プロバイダによります)であるとお考え頂いて良いでしょう。


【青江三奈のファンさん】

アドレスの話をした途端に沈黙されてしまったことで既に語るに落ちているわけですが、何もそんなに手間を掛けなくても、あなたの投稿にはご自分でも自覚されていない、かつ他の方にはまず無い、ある特徴がある事に気づきました。なかなか気づきにくいところでしたが、気が付いてしまえば非常に単純な事で、それは「あなた達はセンスが無い」から始まって昨日の投稿まで一貫して同じでした。

自分の旗色が悪くなると遁走した挙句に、同意見の別人を装って投稿(虚偽の多数派工作ですね)するなど、バレないとでも思っておられたのかも知れませんが、どれだけの恥知らずなら出来るのでしょうか。

人間一人が経験できる事には限りがあります。小説や詩歌は他人の経験(フィクションを含む)や感覚を代理体験する事で、より良い価値判断力や感性を持つべく自分を磨き上げてこそ役に立つものです。残念ながらあなたは何冊本を読んでもそのうわべだけしか頭に入っていなかったのですね。それでは読まれた本が報われないと言うものです。

今のあなたに必要なのは文学的素養ではなくて道徳的素養であると思わざるを得ません。本来こうした厳しい事は個人攻撃となりますので言いたくありませんが、結局のところあなたはご自分の暴言について謝罪もせずに逃げ回っているのですから仕方がありません。

もはや遅すぎるお歳なのかも知れませんが、是非生まれ変わって出直して下さい。

_
by もっふん (2018-04-15 10:34) 

センスがない、、、。

バレましたね。しかし、貴方も、
建設的な議論を期待しています。
云々仰ってましたが、
発言を撤回してる点で同罪でしょう。

私が感情的という言葉を使ったのは、
単なる話のテンポを良くするためのものです。
心の中では、
この人は話がわからんなぁ。と思って呆れて
ます。
私は、持論の正しさを確信してむしろ
ノリノリでかいてました。

実際、川の流れのように をカラオケで歌って
”美空ひばり”をうたえまーす!
みたいに歌上手いように考える人は、
美空ひばり聞き込んでなくてすごさに気づかない人ですから、
冗談めかして見下したって良いでしょう。

あの曲よりも、港町十三番地をテンポ良く歌える人の方がよっぽど”らしい”歌唱力があると思ってます。

フィクションが、感性を良くするためのものダァ〜なんという考え方は、
利益優先で行動してる証拠ですよ。
その、精神的な余裕の無さでは、
日本語の響きなんか気にすることが
ないでしょう。新聞やツイッターの文章を読むようにしか、物語文を読めないでしょう。

もっふんモトイぽぽんたさん、、、。
貴方以外で反論されてる人がいらっしゃいませんね。
そろそろ、このコメント欄を読まれている方々は私の意見に触発されて
『確かに言われてみれば、
川の流れのようには、駄作だなぁ。
何で、今まで聴いてたんだろうなぁ』
という意見に変化してるのでは、、、。

by センスがない、、、。 (2018-04-26 00:30) 

センスがない

まぁ、たかがカラオケ云々で歌唱力の話
しても仕方ないですがね。
川の流れのように が好きな人は
美空ひばり楽曲を、そこまで深くきかないんでしょうね。

それはさておき、
ブロックされる前に
私の仮名”青江三奈のファン”の意見について
”建設的な議論”をして頂ければ嬉しいのですが。

コピーライターのお仕事されていた点では
阿久悠さんと同じですね。

大人の美空ひばりは、ダミ声のきつい歌手で、
それで好き嫌い分かれていましたね。
持っている声の種類が桁外れに多い歌手でした
し、リズム感も良かった。

しかし、晩年の歌唱は、地声から裏声に
切り替えるときのテクニックを発揮するだけの
体力が無かったのでしょう。
川の流れのように は、
もう地声と裏声の切り替えがアカラサマですよ。
だから、ひばりファンとしては
この歌を代表曲扱いして欲しくないです。

もっふんさん。あなたは、主にメロディを
重点的に解説されてるはずです。
だから、『世代を超えて愛される音楽』
という話についてですがね。いわば専門外の
歌詞 の良さと専門のメロディの良さを
一緒くたにしてまであの主張をする必要は
無かったでしょう。



by センスがない (2018-04-26 00:50) 

センスがないという言い方。

センスが無いという言い方は、
詳しく無かったですね。
僕は、センスが養われていないという
ことを言いたいのです。
by センスがないという言い方。 (2018-04-26 01:00) 

お名前(必須)

歌は、初めは直接的なメロディに魅力を感じることの方が多いですし、そうあるべきです。

しかし、歌詞が良くないと
聴いた時に涙を流したりは出来ないんですよ。
そういう点では、阿久悠や松任谷由実や秋元康
は、歌詞が広告的で、叙情を描くのが
少し下手だと思います。
by お名前(必須) (2018-04-26 01:09) 

お名前(必須)

歌詞はやっぱり、
興味を抱かせる要素であってほしいです。
陳腐な歌詞には、何の面白みもない。
by お名前(必須) (2018-04-26 01:10) 

もっふん

>相変わらず自分だけがエラいさん

建設的な議論を放棄したかったわけではありませんが、他人を騙るような卑怯者と会話などしたくない、と言う気持ちは正直なところ今もなお持っています。

「あなたも同罪」と言ってのける事で、結局のところ今のところあなたが先に犯した無礼については何の謝罪もありませんから、このまま未来永劫無視したいところでしたが、たかって来るハエのような「構ってちゃん」とお見受けしたので、自己承認欲求だけが肥大した寂しい人なのだと憐れんで少しだけお付き合いします。

出来れば主張されたい事は1コメントにまとめて書いて頂きたいですね。話があっちこっち飛んでしまって掘り下げる事が出来ませんから。

「この人は話がわからんなぁ」と言う部分は私の方も非常に同感ですよ。

面倒なので一言で言うと、あなたの感性は古すぎるんです。昭和40年くらいで止まってしまっていて何の進歩もしておられないので、おっしゃってる事が懐古趣味の域から一歩も出て来ない。

先に私が書いたように、もしリスナーがみんな無教養であるならば、その無教養な人達に気に入られるような作品を作ってのけるのがプロと言うものです。

たぶん、過去にはご自身もテレビも随分とご覧になって来られたと思いますが、テレビが最も大衆を動かす力を持っていた昭和の時代、テレビ番組の想定ターゲット層は30代高卒専業主婦だったと言う事をご存知でしょうか。マスメディアに乗せるコンテンツは、そういうお客さんを想定していたのです。

いくら良い商品でもお客さんに買って貰えなければ存在価値がありません。

あなたがおっしゃっている事は、たとえば「荒城の月」は名曲だからヒットすると言う論理に近いのです。そんなものをワイドショーや昼メロにご執心の専業主婦が買いますか?

音楽は作り手と受け手のコミュニケーション手段です。音楽に限らず、全ての商品やサービスも「私を利用して下さい」と言うメッセージを以て消費者とコミュニケーションしていて、たとえばシャンプーであれば「この価格でこの仕上がりこの香り」と言った諸々がメッセージを形成しています。

そしてコミュニケーションに成功した商品が売れて行くのです。

あなたは「これは良い(今回は「悪い」ですが)。分からない方がどうかしている」と言い張ってはいるものの、リスナーのレベルや反応を踏まえたコミュニケーションとして捉える視点が致命的に欠けておられるので、「良いのに評価されない、悪いのに評価される」と言う消化不良がいつまで経っても解消しないのです。

これもまた読み流されたのかも知れませんが、詞にしろ文章にしろ、書き手と言うのは自分の属人的な感性やボキャブラリを駆使する事で、世間に対して「どうだ!」と胸を張れる物を作りあげたい欲求を常に抱えています。

本記事の楽曲が安直だと受け止められるかも知れないと言う事を一番危惧し、骨身に沁みて分かっていたのも当の秋元氏であるはずです。

ひょっとするとそこにはもっと文学的な第一稿が存在したのかも知れません。しかし、プロデューサーやディレクターがゴーサインを出したのはこの歌詞だったわけです。

そうなって来ると、この詞で良かったのかどうかの責が秋元氏一人にあるわけでは無いと言う事もご理解頂けるでしょう。(阿久悠氏の一部の作品はプロデュースも氏に任されていたので少々事情が異なります)

では、一体これで良かったのか。

結果的に売れたわけですから、制作現場の判断は正しかったと言わざるを得ません。

私たちにセンスが足りないと言われるのであれば、あなたのセンスは古すぎてカビが生えていると言う言葉をお返ししておきます。平成も終わろうと言うこの時代に、言われるままに食べたら腹を壊すレベルです。

趣味のポエムと商業作品を同列に考えるのはもういい加減おやめになった方が良いと思います。このブログは「ボクちゃんのポエム」のためのブログでは無いのですから。

本楽曲が発売された当時、もはや美空ひばりの最盛期を知る人はかなり高齢化しており、若いリスナーは美空ひばり「なんか」まるで聴く機会が無かったでしょう。そのままであれば「昔のひばりちゃんは良かった」などと言っている老人たちが寿命を迎えるとともに人々の記憶からも美空ひばりの存在は消え去っていたはずです。

百歩譲って本楽曲が駄曲であったとしても、人々の記憶の中で生きる美空ひばりの寿命を延ばした功績を以てこれを(世代を越えた共通語としての)「代表曲」として扱う事は自然な事であると考えます。それは詞曲含めて音楽的な完成度とはまた別の話です。

太田裕美と言えば「木綿のハンカチーフ」しか無いような言われ方にご本人はかなりの抵抗があったようですが、大衆文化と言うのは常にそういうものなのだと思います。
_
by もっふん (2018-04-26 10:24) 

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