So-net無料ブログ作成
検索選択

とまどいトワイライト / 豊島たづみ

大ヒットではありませんでしたが…

とまどいトワイライト ジャケ写.jpg
チャートアクション

「とまどいトワイライト」は豊島たづみさんの4枚目のシングル、そしてTBSテレビのドラマ
「たとえば愛」の主題歌として1979年2月に発売され、オリコン最高19位(同年4月9付)、
同100位内に19週ランクインし14.7万枚の売り上げを記録しました。
テレビで歌唱が披露された事も少なく、チャート的にも大きなヒットではなかったのですが、
当時ラジオではよくかかっていたようで、私もFMのベストテン番組で初めて耳にし、
サウンド全体から漂ってくるうらぶれた雰囲気、どこか投げやりのような歌い方に、
当時高校3年だった私は特別な世界を見たような気がしたものです。


作家について

作詞・阿木燿子氏、作曲・宇崎竜童氏。 山口百恵さんの「横須賀ストーリー」以降の
多くの楽曲を初めとして数多くのヒット作を世に送り出していた頃の1曲です。
「とまどい…」は宇崎氏のお気に入りでもあるようで、セルフカバーも制作されています。

編曲は大村雅朗氏。 松田聖子さんの「青い珊瑚礁」以降の多くの楽曲のアレンジで
一気に知られるようになったと記憶していますが、
1978年には「みずいろの雨」(八神純子)が大ヒットしていましたし、
「とまどい…」と同じ年には「きみの朝」(岸田智史)なども大ヒットしました。
阿木・宇崎コンビの楽曲では、「とまどい…」の翌年にやはり山口百恵さんの「謝肉祭」の
編曲を行っており、その良さが松田聖子さんの楽曲制作に起用されるきっかけだったそうです。


楽曲について

全体の構成はシンプルな2コーラス。 やや物足りなく感じるのは計算の上でしょうか。
リズムはゆったりとした8ビート系で、キーはF#マイナー(嬰ヘ短調)。
他調にわたる転調はありません。

歌メロと歌詞が実にぴったりと合っていて、一人のシンガーソングライターが作ったのでは、
と思ってしまうほどです。
私はこの曲について書こうと思い作家を調べた時に阿木・宇崎コンビの作品と知り、
38年も経って改めて驚いてしまいました。

では今回も楽譜を…(先週貼り付けたものと同じです):
TTScore.jpg
その象徴がA・A'メロにすでに2箇所出ています。
一つはそれらの終わり近くで、Aでは2/4拍子が使われ、A'の同じ部分では4/4拍子のままで
作られている部分です。
それらは字数は同じなので、その2/4拍子も字数合わせが目的でない事はわかります。
ではなぜ2/4拍子を?と考えると、そうする事で流れに変化を付けられるから、などと
単に感覚的にそうしたとしか思えず、歌詞が必然的にそうさせたものであると感じます。
なので、この楽曲は詞先ではないでしょうか。

もう一つ。 Aの歌メロの出だしはタン・タタ・タン・タタ ターンタタ ですが(って、
小学生の頃にリズムの打ち方としてこんな感じで習いましたよね(^^;))、
次に来る同じようなメロディーではタン・タタ・タン・タタ・タン・タタ・タンとなり、
A'ではやはり2回来る同じメロディーで同じリズムが使われている。
まとめると、A・A'にある計4回の同じメロディーで1回目だけが違う珍しい作りであり、
やはり理屈でなく歌詞の流れとそれに対する感覚がそう作らせたとしか思えないんですね。


歌メロとコード進行の関係を見ていくと、A・A'は教科書的で、和音とメロディーが
定石通りに寄り添っているのに対し、
Bメロでは ♪とまどいトワーイライ♪ の「イライ」でやや定石性が薄れて「これから
どうなっていくのかな」と聴く人に期待させ始めます。
ここまでは歌詞では状況説明に徹していましたが、
Cメロ(サビ)ではそれまでに無かった細かい譜割りとシンコペーションで
♪このまま~帰っても…聞くのがつらい♪ と一気に盛り上がってついに心情吐露…
と、歌詞と歌メロが緊密にシンクロしてリスナーに迫る作りとなっているんですね。

因みに歌の上では「とまどいtwilight」と歌われているのが、twilightをタイトルでは
片仮名にしたのは親しみやすさを狙ったのでしょうか。

私が歌メロで「これは!」と思ったのが、Cメロの ♪誰もいない部屋のドアを♪ の部分です。
メロディーを作る時、ここは必ず崩さずにこのまま聴かせたい!と言うフレーズと、
そんなメロディーにスムーズに導くためのフレーズが必要になります。
♪誰もいない…♪ のフレーズはその後者であり、作る側としてはどう作っても
それなりに成立してしまう部分なのですが、
この曲のその部分はコードと歌メロを一緒に音を下らせ、
しかも6thやM7と言った哀愁を醸し出す音をメロディーに組み込むことで、
歌詞の主人公の、徐々に落ち込んでいくような気持ちを表現しているんです。
どう作っても何とかなる部分だから大切こそ作る、と言った心意気が感じられます(^^)


豊島たづみさんのボーカルは、どこか平山みきさんやいしだあゆみさんに通じる
イメージを感じるものの、そっけないような投げやりなような独特の雰囲気がありますね。
声域が、この曲では下のEから上のAと女性としては最も低いアルトであり、
その事も独特の雰囲気に直結しているようです。


サウンドについて

ハープとドラムスのシンバル、そしてストリングスでSEのようなフレーズで始まり、
やがてケーナの2重奏、ハープシコード、またケーナと、静かで繊細なイントロです。
ケーナが入るとやはり「コンドルは飛んでゆく」のようなフォルクローレの雰囲気になり、
それにバスタムのドーン…という音が重なると「ここは一体どこ?」って感じです(^^;)

1コーラス目では楽器の数が少なめ、2コーラス目になるとバスタムを始め楽器が徐々に増え、
ストリングスなどは1コーラス目とは別のフレーズで…等々、
聴き込むほどに複雑なアレンジとなっているのがわかります。

使われている楽器とその定位は…
左: ハープ アコギ カスタネット
左-中央: バスタム(フロアタム)
中央: ベース ドラムス ケーナ アコギ ハープシコード ピアノ シタール
右: アコギ エレキギター
左右ステレオ収録: ストリングス 女性コーラス

中央に「シタール」と書きましたが、実際にはエレキシタールにフェイズシフターを
かけたような、グルグルザワザワと効果音のように聞こえます。

この時代ではアナログの24トラックで制作されているはずで、
それ以前の16トラック時代よりも楽器の数が多く、1975年頃あたりの楽曲と比較すると
アレンジもより手が込んでいます。
アコギだけでも3方向から聞こえて来ますが、それもトラック数に余裕ができて
可能になったと言えます。

しかし全体を通して聴くとサウンドに分厚さのようなものは感じられず、
むしろスッキリとしていてボーカルがより際立って聴こえ、
バランスも極めて歌謡曲的に感じられ、耳にスッと抵抗なく入って来る音作りなんですね。
それはエンジニアリング的なものよりも、アレンジでの音選び(楽器が重なった時の
鳴り方等)によるものが大きいようです。


付記

「とまどいトワイライト」はそのタイトル通り、曲全体が薄暗い雰囲気に支配され、
歌詞にはきわどさも感じられ、それをややぶっきらぼうなボーカルで表現され…
と個性的な楽曲であり、恐らく好き嫌いも分かれるタイプでは、と思います。

文中で触れたケーナですが、その哀愁のある音が日本人好みと思われ、
歌謡曲にもよく使われています。

個人的には太田裕美さんの「遠い夏休み」(アルバム「手作りの画集」収録)での音に
思い切りキュン!と感じたりするのですが(#^^#)、
ケーナの音色を生かし切ってる、と思えるのが坂田晃一氏なんですね。
極めつけはNHK連続テレビ小説「おしん」のテーマ曲ではないかな(歌謡曲じゃないですが)。

アレンジャーの大村雅朗氏については、
7月に「作編曲家 大村雅朗の軌跡 1951-1997」なる書が発売されましたので、
ぜひご一読をお薦めします。


ところで…豊島たづみさんって、どこか渡辺えりさんと似てません?


「とまどいトワイライト」
作詞 : 阿木燿子
作曲 : 宇崎竜童
編曲 : 大村雅朗
レコード会社 : ポリドール
レコード番号 : DR6282
初発売 : 1979年2月1日

nice!(1)  コメント(12) 
共通テーマ:音楽

nice! 1

コメント 12

ゆうのすけ

この頃のTBSドラマ”木曜座”からは
「きみの朝」岸田智史 「もうひとつの心」TINNA 「愛の水中花」松坂慶子 「終わりのない歌」 惣領智子」 「淋しくありませんか」メロディー 「恋の綱わたり」中村晃子 「シー・ユー・アゲイン」 西村 協 「夕暮れはラブ・ソング」桜田淳子 「19:00の街」野口五郎・・・・・そして 「とまどいトワイライト」 豊島たづみ
数多くの主題歌や挿入歌がヒットしましたよね。流石にドラマをイメージした作品が多くて [ザ・ベストテン]からの流れで良くドラマを見ていましたが子供ながらに 見ていいものなのか。なんて思ったことも多かったですね。^^最近は この手の大人の流行歌ってめっきり少なくなりましたよね。♫~
by ゆうのすけ (2017-09-04 02:34) 

ぽぽんた

ゆうのすけさん、こんばんは!

う~ん、私は当時は全然と言って良いほどドラマは観ていないので、音楽の方しか
知りません…って、挙げて下さった曲ってヒットした曲ばかりですね!
驚きました。 ドラマも人気があったのでしょうね。
「とまどい…」を聴いても、確かに大人の歌ですよね。 当時はあまり
気にしていなかったのですが、2コーラス目の歌詞って…結構凄いですよね(^^;)
最近はヒット曲自体無くなってしまっていて、音楽好きにとっては不毛の時代、
と言った感じです。
しかし私の周りでも最近、レコードプレーヤーを購入する人が増えていて、
もしかすると30年以上ぶりにレコードで大ヒットが出たりして…などと
妄想してます(^^)

by ぽぽんた (2017-09-05 22:53) 

もっふん

★詞先と曲先★

宇崎夫妻の場合は「常に詞先」であった事があちこちで語られています。例えばこの記事では、

 http://www.asagei.com/excerpt/13870

「大学時代は自分でも作詞していたが持ち曲が350を越えて来てネタ切れになったので周囲に作詞を頼んで回った」「ここ10年(インタビューは2013年)は曲先だけどそれまでは必ず詞先」「曲をつけにくいから詞を変えてくれと言った事はない。阿木の詞に限っては、じっと見てるとなぜか音符が浮かんでくる」「作曲に困ったのは『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』だけ(出した結論は皆さんご存知の通り)」などのエピソードが宇崎氏によって語られています。

「路傍の石」と言う方の個人ブログにも某 TV 番組でそう語られたとの記載があります。

 http://blog.livedoor.jp/mickbanzai/archives/51814580.html

ブログはいつ閉鎖されるか分からないので興味深いポイントを書き抜いておくと、

・穂口雄右さんは詞先で作曲することが圧倒的に多かったと書かれていた。「理由はメロ先の場合、歌詞でメロディのリズム感が変わる場合が多いから。仕上げに責任を持つ場合には詞先が絶対条件」とのこと。

・(当時は)往年の阿久悠の言葉(※)を思い返しても、先に作詞を行ってから作曲家にそれを渡して曲が作られるケースが多かったようだ。
(※もっふん註:阿久悠氏は曲先の制作に注力する理由として「いくら良い詞を書いてもメロディが平凡では名曲にならないが、良いメロディに素晴らしい詞を乗せる事が出来ればそれは必ず名曲となるから」と語られており、「自分にはそれが出来るんだよ」と言う強烈な自負心を感じ取る事が出来ます)

ここからはブログ主である路傍の石さんの個人的見解ですが、

・詞先の場合は、詞がそこから派生するメロディによってその言葉の意味まで深く掘り下げられて装飾されることで、詞もメロディもフックが効いた強力なものになるように感じる。往年の昭和歌謡にそんな名曲が多いのは詞先による効果の表れじゃないかと思う。

・曲先の場合は、先に出来上がったメロディによって詞の言葉の選択に制約が増えるため(言葉のイントネーションを壊さずそのままメロディに乗らなければ言葉が伝わりにくくなる)、よほど豊富なボキャブラリーを持って対策しないと独創的な詞を作るのは困難であろう。阿久悠はそれを見事に克服したことからこそ天才と呼ばれた。逆に言うならば、凡百の作詞家では曲先で真価を発揮するのはそれだけ難しいということだ。

・現在の J-POP の曲作りは、圧倒的に曲先が多いようで、その理由は一説には、詞の流れや言葉のイントネーションに合わせてメロディが付けられるところまで今の若手作曲家のスキルが追いついていないからだと言われている。なので、常に曲先で、そこに後から付けられる詞が凡庸なものになりがちなのはもう仕方がないことなのかもしれない。

・J-POP はメロディの素晴らしい曲は多いけど、詞の印象がその場限りでメロディとともに強く心に残らない。昭和歌謡にあった詞とメロディが渾然一体となって立ち上がってくるような強烈なインパクトを持った曲に出会うことが少ないのは、曲先によって作られることと無関係でないような気がする。


ソングライターとしての私自身がほぼ 100% 詞先で曲を考えている事は別記事へのコメントで書きましたが、ここまでメロ先制作楽曲に悲観する必要も無いだろうと思いつつ、「(一般的には)詞先の方が最終的にしっくりくる」と言う私の感覚を代弁してくれている部分も大いにあります。
_
by もっふん (2017-09-07 05:04) 

もっふん

★阿木燿子の詞作★

その類稀なる個性的な詞の内容から気付かれる事が少ないのですが、阿木さんの詞作の基本は殆どが七五調です。これは楽譜に落とす時にどう落とし込んでも収まる形式であって、七が八で書かれているものも本質的には七五調です。

本曲の歌詞を【】内にフレーズの音節数を書き抜いてみると

 笑い過ぎたあと【8】ふと気が抜けて【7】
 指でもて遊ぶ【8】カクテル・グラス【7】

 映画の話も【8】そろそろつきて【7】
 店を変えようと【8】誰れかが言いだす【8】

ずっと「8+7」で書いて来て、サビ前である A2 メロだけが最後「8+8」で終わっているのは、サビ前なんだから当然ここでメロディも変わってくるはずだ(と言うよりもダンナに「工夫しなさい」と無言のプレッシャーを掛けている)と言う意図であると思われます。これは2番でもきれいに字数が合っています。

これはサビに入っても踏襲されます。

 とまどい(ト)ワイライ(ト)【8】心が揺れる【7】
 とまどい(ト)ワイライ(ト)【8】私か揺れる【7】

ぽぽんたさんが記事で触れたように「歌の上では『とまどいtwilight』と歌われている」事にも意味があって、英語で歌う場合「t」には母音が付きませんからカッコで括りだしてあるように「トワイライト」が実は4音節しか無くて、フレーズ全体として「8」に収まるように作詞されているのです。

 このまま帰っても【8+1】このまま帰っても【8+1】

「帰っても」は読み上げると5音節なので「+1」と表記しましたが、実際問題「っ」と言う促音便は(若干メロディを制約しますが)音符が4つの中で「かえても」と割り付けても「帰っても」と聴かせることが可能な歌詞です。実際、二番の該当箇所は

 一人で帰れば【8】一人で帰れば【8】

となっており、「帰ぇぇればー」と言うメロ割によって「帰っても」ときちんと両立しています。

続くフレーズはぽぽんたさんの解釈では「メロディーにスムーズに導くためのフレーズであり、作る側としてはどう作ってもそれなりに成立してしまう部分」との事ですが、作詞する阿木さんにとっては「ここでキメてちょうだいね」と言う「サービスパート」。

 誰れも【3】いない【3】部屋の【3】ドアを【3】開ける【3】音を【3】

ここで好き放題にテクニカルなフレーズを披露しておいて

 聞くのがつらい【7】

で無難に落ち着かせて終わって下さい、と言うのが作詞家の「注文」なわけです。

こういう曲の最後の盛り上げに3音節フレーズを連打するパターンも夫妻の間では常套手段であったらしく、

 俺の 腕の 中で 眠る 人よ (身も心も)

 今も 海が 見える でしょう かー (横須賀ストーリー)

 ちょっと 待って 今の 言葉 プレイ バック (プレイバック PartⅡ)

 ぼうや い(っ)たい 何を おそわ(っ) てきた の (同上)

 わたし や(っ)ぱり わたし や(っ)ぱり (同上・これは「7」と考えてもOK)

先述の理由で促音便の「っ」を抜くと、実に「二人の暗黙の決まり事」のように曲の終盤で3音節フレーズが用いられる例が少なくありません。

1番では「注文通り」の譜割であるのに対して2番では「人気の【4】無い部【3】屋のヤ【3】ミの【2】」と変化させていますが、注文は「仕掛けはしてあるからね」と言うだけの事に過ぎず、「歌の息」によってメロディが変わって来るのも良くある事です。
_
by もっふん (2017-09-07 06:20) 

もっふん

★宇崎竜童の作曲★

ぽぽんたさんの着目した「A1 メロの最初だけメロディが違う」のは、この

 F#m→C#m7→Bm7

と言う進行が4小節に一回繰り返され、1コーラスだけで4回、この短い曲に全体で8回に渡って使われているので、変化をつける事で単調になる事を避ける意味合いの方が強かったように思います。

本来なら、こういう「出だしが同じ」進行でメロディを作る場合、2回目の後半部分で大きく展開して盛り上げるのが一般的で、典型的な作り方は「月見草」(岩崎宏美)でしょうか。

歌い出しは本曲をそのまま三拍子にしたと言っても良いくらい音の選び方が似ていますが、A2 メロでははっきりと新しいフレーズに展開して行く作りになっています。

一方、本曲は宇崎氏自身によってもカバーされており、

 https://youtu.be/8yuF3q7GgnE?t=630 (メドレーの途中からです)

「アレンジに合わせた」のかどうかは何とも言えませんが、いずれにせよ作曲者本人がこの

 F#m→C#m7→Bm7

の部分の「メロディの仕掛け」を全く重視していない(全部同じ)歌唱になっています。

ブルース色の強い宇崎版テイクと、ちょっと「大人の子守歌」風の豊島たづみバージョンを比較する事に意味は無いのかも知れませんが、私はこの「仕掛け」は実は編曲家である大村雅朗氏による指示なのではないかと思っています。

宇崎氏がどこまで楽譜を作ってアレンジャーに渡ったのかも推測しか出来ませんが、純粋にロックバンド向けに曲を書いて来た人であれば、冒頭部分のデモが

 (F#m)笑い過ぎた(Bm)あと(D)ふと気が(C#7)抜けて

であったものを大村氏がリハーモナイズして作品の形になった可能性すらあります。
と言うのは、バンド指向の人が本曲のようなコード進行で行こうと思ったのであれば、

 (F#m)笑い(C#m7)過ぎた(Bm7)あ(F#m)と(D)~(E)~

と、勢いで「Bm7」を放置できずに「F#m」を挟んでしまうと思うからでもあります。

記事にある 2/4 小節の挿入も、これは無くても歌として成立はするけれども、余りにも同じメロディが続き過ぎるとの判断で、A1 メロと A2 メロの間に一呼吸入れたい、具体的に言うと F#m 部分で流れるギターのオブリガードを挟むためにこの形が取られたのではないかと思いました。F#mで一旦終止して、すぐまたF#mで始まるわけですから「何か入れなきゃ」と考えるのは自然な事で、それは宇崎氏の段階で構想されていたのか大村氏の判断によるものかは分かりませんが、これが編曲家の判断であったとしても驚く事ではないでしょう。

 このまま帰っても このまま帰ってもぉぉ~

の部分は、ある種の「宇崎節」でもあって、「美・サイレント」の

 女の私に ここまで言わせて

と言うフレーズと、「身も心も」の

 身も~心も~、身も~心も~っ

の部分を足して二で割ったような感じですね。

そしてぽぽんたさん大絶賛の部分。ここは奥さんとしては「カッコ良く最後に落とし込んでね」と作詞した部分なので、宇崎さんも手を抜くはずがありません。

が、これ、ぽぽんたさんの採譜の傾向なんですが、例えば E6 の部分など、「軽音楽的発想」では単純に C#m7 on E、「ロック的発想」では E(メロの C# は単なる勢い)と見ちゃうところを、ルートとテンションを丁寧に全部拾っておられますね。いや、勿論ルートもテンションも(それが意図されたテンションであれば)大切なのですが。

「作る側としてはどう作ってもそれなりに成立してしまう」と言うのは、逆にこのメロディラインが先にあっても、これに対して恐ろしい程テキトーなコードを当てはめて歌えてしまうと言う事でもあり、例えば

 (F#m7)誰もいない(Bm7)部屋のドアを(F#m7)開ける音を(C#7)聞くのが~

などと言うフォークソング黎明期みたいなコードで最初のデモテープが作られていた可能性だってあります。いやまあ、さすがにデモを提出する前に「これじゃダメだ」と書き直しているでしょうが、その時にベースライン下行クリシェを使おうと思った結果があのコード進行であり、トライアドのコードを当てはめたら「結果的に」メロディで使っている音が 6th だったり maj7 に相当した、と言うのが実態なのではないかなあ、と思わされなくもありません。

曲中で経過音以外のノンコードトーンを鳴らす場合、最初からテンションとしての効果を狙っている場合と、「これコードトーンじゃないけど違和感無いから勢いで押し切れば問題無い(キリッ」と言うケースがあって、音楽的バックボーンがロックなどの軽音楽畑の人ほど後者である場合が多いと思います。

宇崎さんは軽音楽サークルでトランペットを吹いておられたようですが、歌モノのバンドをお演りになっていたと言う事では後者の可能性も否定できないかも知れません。

私は完全に後者なので、私に取って IV6 の和音は(音の重なり方や対旋律で IV を強く主張していない場合)単なる Ⅱm7 on 3rd であったりもします。
_
by もっふん (2017-09-07 08:34) 

もとまろ


ぽぽんたさん、こんばんは。

イントロクイズ、全然わかりませんでした。
ヒントを頼りに調べてもわからなくて、「どこかで聴いたような…」。
答え合わせで、「とまどいトワイライト」は聴いたことはあるけどはっきり知らない歌だ…そう思い、改めて聴きました。

「思い出のメロディー」で豊島たづみさんが歌うのを確かに見てましたが、NHKの渋い選曲に感激した…どうもそれだけだったようで、あれから結婚して母親になって、今聴くと、独身末期の小倉一人暮らしを痛いほど思い出します。

そして何より、譜割りが難しい…。
♪わらいすぎたあーと♪
♪ゆびでもてあそーぶ♪
♪みせをかえようーと♪
♪ターンするたびーに♪
ここは音を伸ばすところが一緒ですが、あとはバラバラで覚えにくいです。
それと、もっふんさんも触れておられますが、
♪【だ】れも♪
♪【ひの】けの♪
ここも違うんですね。
歌うには難しいけど、聴くとそこが味になってるのかもしれません。
豊島たづみさんの他には、日吉ミミさんとか北原ミレイさんが歌ってもしっくりくるような気がします。
本当に、大人の歌だなぁと思います。

最後に。
もっふんさんの「詞先・曲先」のお話で、宇崎竜童さん(先生、とはちょっと違うかな)の作詞のネタが切れたくだりで清水健太郎さんの「遠慮するなよ」、穂口先生は圧倒的に詞先が多いくだりでキャンディーズの「春一番」、阿久先生が曲先でも書けていたくだりで石川さゆりさんの「津軽海峡・冬景色」が浮かんできました。
by もとまろ (2017-09-09 22:24) 

ぽぽんた

もっふんさん、こんばんは! ホントにいつもお返事が遅くてごめんなさい。

今回戴いた解説3部作、もう返す言葉がありません。 いつもながら広い視野で
書かれていて、読み応え満点です。 勉強させて頂きました。
阿木燿子・宇崎竜童夫妻の作品の作り方については、私の調査不足です。
確かに常に詞先だったようですね。 色々な文献に書かれていた事も
見逃していたんですね…お恥ずかしい。

♪誰もいない部屋のドアを…♪ の部分のコード進行については、これは
意識して音を丁寧に拾ったわけではなくて、音源と一緒にピアノを弾いていて
自分の中にある一つのパターンと合致したのか、何も考えずに一度でパッと
弾けてしまったので、それをそのまま書いたんです。
時々研究しているのが、以前にも書いたと思いますが「このコード進行に
このメロディーは成り立つか」と言った事なので、その恰好の材料ともなったわけです(^^)
今回コピーをしてみて、作曲についてもプロならではのやり方、作り方があるものだと
強く感じました。 分析はまだまだこれからですが…。

by ぽぽんた (2017-09-10 22:59) 

ぽぽんた

もとまろさん、こんばんは!

この曲、きっと知っている年齢層がかなり狭いだろうと思うんですね。
当時も巷に流れて誰もが口ずさんだ…と言ったタイプの曲ではないですし、
子供にウケる曲でもないわけで、やはり学生か社会人になりたてくらいの世代あたり、
それもテレビよりラジオを好むような人に人気が出る、そんな曲だった気がします。
確かに大人の歌なのですが、聴くのは大人に憧れを持つような年代の人が
多かったのではないかな、なんて思いました。

私は大黒摩季ファンなので譜割りの難しい曲には結構免疫があるのですが、
この曲は確かに音を伸ばすところがバラバラな感じがして覚えにくいですね(^^;)
その代わり一度憶えてすんなり歌えるようになると、それは気持ちいいと思います(^^)

by ぽぽんた (2017-09-10 23:07) 

JP

「とまどいトワイライト」いい曲ですよね。アンニュイな大人の歌謡曲。
詞先か曲先の話、吉田拓郎も絶対詞先らしいですね。作詞家と作曲家が"コラボレーション"(協働)するならば詞先のほうがいいだろうな、と考えてます。なぜならば曲先で作ってしまうと作曲家が自分の"手くせ"みたいな枠の中に収まってしまいがちなのではないか?詞先であるならば歌詞という主体が持っているリズムに合わせて、いや誘導されて曲を作るはずなので、"自分の手くせ"を越えやすくなるのではないか?それこそが本来コラボレーションが持つマジックなのではないか?と思います。
by JP (2017-09-12 16:31) 

ぽぽんた

JPさん、こんばんは!

う~ん、それはどうかなぁ。 手癖との表現が適切かどうかはわかりませんが、
その人なりのパターンが存在するのは詞でも曲でも同じだと思うんですね。
それがお互いの作風に刺激されて新しい発想で作れる可能性が出てくる、
と言う意味では詞先でも曲先でもあり得るのではないでしょうか。
そういう意味では、一人で両方こなすのはよりパターンに落ち込みやすいのかな、
とも思えてきます(^^;)

by ぽぽんた (2017-09-13 23:24) 

もっふん

まとめコメで失礼します

>もとまろさん、JPさん

私のクソ長い、しかも多分にマニアックなコメントを読んで下さって有難うございます。思い込みや勘違いで時々ウソを書いてたりしますけど、目に余る間違いはたぶんぽぽんたさんが訂正して下さるはずですので、これからもご愛顧よろしくお願い致します(ぉぃ

>もとまろさん

ぽぽんたさんには怒られるかも知れませんけど、プロでも他人の曲をカバーするに当たってメロディを変えてしまう(フェイク)ことはありますので、歌っていて気持ち良い歌い方が一番かと思います。実際、宇崎さんもセルフカバーでフェイクしちゃってますし「歌い手の味」も音楽の魅力のうちかと考えます。ただそれだと、採点カラオケで高得点が取れない事だけが難点かも知れません(笑

一人暮らしの経験がある方が所帯を持たれると、なんやかんやと悪し様に言いながらも口を揃えたように「自分の帰りを待っていてくれる人がいるのは有り難い。玄関を開けた時に灯りが点いているとほっとする」と言われますよね。

流行り歌にしても小説やドラマにしても、単なるエンタメとしてフィクション世界を楽しむ部分と、何かしら受け手の人生や考え方に重なる事で心に沁みる部分が混在しているものだと思います。この詞は「いかがなものか」と言われている「挨拶代わり」の下りも含めて後者を狙う事に力点が置かれているようです(これ以上やると演歌になるスレスレのところでしょうか)。

ただ、そうした「重ね合わせ」が出来るかどうかは受け手の感受性や想像力に依存する部分が大きいので、もとまろさんのようにしんみりと共鳴して下さるリスナーがいる事は阿木さんにとっても作詞家冥利に尽きる事でしょう。

昨今は、小説で言えばライトノベルに分類されるような、リスナーがひたすら受け身でいられるエンタメ性重視の作品や、ネガティブな感情に浸る事を許さない「明日を信じて頑張ろう」と言う「議論の余地が無い正論ドヤ顔作品」が幅を利かせているようにも感じており、それはリスナーのレベルが下がっているからなのか作り手のレベルが下がっているからなのか、なんとも複雑な気持ちで音楽シーンを見ています。

しかし、阿久悠氏の名前を知っている人ならばご本人が「俺はたった2行で上野から雪の青森まで行かせた」と豪語してはばからなかった「津軽海峡」は出て来ても不思議がありませんが、「穂口雄介」でキャンディーズを連想できる人は限られていると思いますし、ましてや宇崎さんの作詞作品が瞬時に出て来る人は激レアだと思いますよ(笑

もとまろさんの昭和歌謡に関する脳内データベースに感服した次第です。

※私が「人気の無い」と誤記していた事に触れずに、黙って「火の気の無い」と書き正して下さった事にも感謝致しますm(_ _)m

>ALL

もっぱら「2番はヤバイね」と言う話になっていますが、そもそもこの曲のタイトルの「とまどい」とは「どうすれば良いのか分からなくて迷う」ことです。歌詞の中で起きている事が即座に全面却下される事も無く「それもアリかも・・・」と迷う余地がある部分があるのだとも解釈できます。歌詞の中では「心や体が揺れ」ちゃってますし、主題歌に使われたドラマは再婚女性が元夫との間で揺れまくる話ですし、リアルタイムで見ていた未成年の時には分からなくて当然ですが、阿木さんとしては「大人の世界では割と普通にある話」として書かれていると思います。

クイズ記事へのコメントで「誰もいない部屋に帰るのが辛いと言うだけなら『氷雨』の歌詞の方が凄みがある」と言う思いを、きちんとした説明もせずに書き垂らしましたが、本曲の主人公もまた、上記のような理由から「かつては待っていてくれる人がいた時期」を経験しているのではないかと受け止めました。

当時はいわゆる「四畳半フォーク」の流れを汲んだ「将来が確約されない状態での同棲やその破綻」をテーマにした曲も多く、「積み木の部屋」(布施明)「彼と」(三善英史)、そして本曲と同じ宇崎・阿木コンビによる「思い出ぼろぼろ」(内藤やす子・'76.9.1 リリース)など枚挙に暇がありません。

この曲でも、もし「アイツ」が「一晩くらい」と言わずに「行ける所まで二人で行こう」と言ってくれたのなら一緒に暮らしても良かった、と言うのが「時として寂しさに押しつぶされそうになる」主人公の、本当の気持ちだったのではないかとも、私には感じられます。
(と言うか、他に「とまどい」の要素がこれと言って指摘できないようにも思うのです)

>JPさん、ぽぽんたさん

詞先かメロ先かと言うのはプロデュース方針の話になると思います。歌モノであれば最終的には歌い手が世に広めるわけですから、歌い手の個性を勘案してどのようなコンセプトの作品を作るかが重要であり、作曲家も作詞家も自分が好きな物や自分が良いと思う物だけを作れるわけではありませんよね。(駆け出しの頃の松本隆氏は、初めて引き合わされた筒美京平御大に「趣味で音楽やれたら良いわよね」と皮肉を言われたそうですし)

もちろん作曲家にも作詞家にも編曲家にも手癖と言うかボキャブラリーと言うか、そういった「引き出し」の制約はあるのでしょうが、シンガーソングライターのように半ばセルフプロデュースが許される立場の人でなければ、それを理由にワンパターンに陥る事は許されませんし、どのようなコンセプトの作品制作依頼でも受けられるように日々必死でその「引き出し」を増やす努力をされているものだと思います。

詞先が得意か曲先が得意か、場合によってはある種の「作り手の手癖」を「個性」として期待しながら、適切な発注相手を決めるのがプロデューサーの重要な仕事であると思います。

逆にリスナーサイドから見るならば、「いま売れている」歌い手には「ある程度のパターン」から逸脱しない事が求められます(その「パターン」がどのような物であってもその範囲内で仕事が出来る事が職業作詞家や職業作曲家たる資格要件なのでしょう)。殊にシンガーソングライターにおけるワンパターンと言うのは、良く言えばそれが音楽的な主張であり個性でもあります(自演タイプのアーチストがなまじいろいろとやり過ぎると「結局この人は何がしたいんだ」と言う事にもなりかねませんし)。

一般論として言えば、作曲家を名乗る人であれば間違いなく誰でも詞先での作曲が出来るのに対して、メロ先でガンガン詞を書ける作詞家は限られていますし、まだ若かったとは言えあの阿久悠氏ですら「一人の悲しみ」(ズーニーブー)を「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)に書き直す事には随分と抵抗されたようですから、そういう需要と供給の関係は確実にあるでしょう。

また、新曲のコンセプトを決める企画会議は言葉ベースで進行しますから、作詞家には作品で語るべき世界観も心象風景も伝達が容易であるのに対して、メロ先の場合は「ナントカ風で~」としか依頼の出しようが無く、出来てから「ありゃりゃ」となる可能性を排除しにくいと言う事情もあるかと思います(と言うか、歌詞が決まっていてもその「ナントカ風」に仕上げてみせるのがプロの作曲家であると思います)。

さらに、私一人の個人的な感覚に過ぎませんが、私を他人と比べると作曲よりも作詞の技量の方が「得意度偏差値が高い」と評価されると思うのですが、それでも「一つの詞に何通りかの曲を付ける」作業の方が「一つの曲に何通りか詞を付ける」よりも遥かにラクです。

先に「たとえば…たとえば」へのコメントで触れたように、歌詞はほんの数文字を誤ったり妥協したりするだけで作品世界全体が変わってしまう、そういうデリケートさがそうさせるのだと思っています。

穂口雄介氏のリズム感に対するポリシーもそうですが、松本隆氏が「歌い手が実際に歌ってみなければ作詞の作業は完成しない」と言われている事の意味を考える事が大事なのではないかとも思います。

最後は禅問答のようになってしまいましたが、どちらの手法を採用するにしても最も大事なのは企画段階のコンセプトワークであり、ここをスルーして商業作品の制作は不可能であると思います。
_
by もっふん (2017-09-18 06:47) 

もっふん

誤記です。よくある事なのでいちいち直すのもどうかと思いましたが気になったので。

 × 穂口雄「介」氏
 〇 穂口雄「右」氏
_
by もっふん (2017-09-18 13:39) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

メッセージを送る